【第1回】
《はじめに》
 1987年にスタートした『大阪コレクション』というファッション事業を、大阪のどれほどの人が知ってくれているだろうか。まだまだ「大阪を代表するイベント」の域には達していない。しかしそれでも、『大阪コレクション』から巣立ちした若いファッションデザイナーの活躍もあって、この世界では、少しは刺激的な存在に育ちつつある。
この稿を書き起こす1時間ほど前にも、この事務所に韓国のKBSが大げさなテレビカメラを持ち込み取材に来ていた。

■韓国KBSの取材
 ファッション産業を国策として戦略産業に育成しつつある韓国だが、ハイレベルのファッション情報は首都ソウルに集中し、地方でのファッション振興が立ち遅れている。そこで、大邱(テグ)をモデルに地方でのファッション振興に取り組みつつあるのだが、学ぶべきお手本が『大阪コレクション』にある、というのが取材の趣旨であった。
 パリコレなどとともに、世界の5大コレクションに位置付けられる『東京コレクション』を向うに回し、なぜ『大阪コレクション』を成功させることができたのか、その秘訣を知りたいということである。もちろん私たちは「成功への道」をひた走りつつあるが、いまだ成功したとの認識はない。成功などと言われると、いささかむず痒い感じがしてくるが、海の向うからこのようなお客さんを迎えることは悪い感じではない。

■ファッションとは無縁な私
 たまたま私は、縁あってこの事業に参画する機会を与えられ、しかも様々な事情で運営事務局まで仰せつかってしまった。学生時代の仲間に言わせると、「もっともファッションと縁遠いところにいるお前が、なぜいまファッションだ」とひやかされる。当時の私の生活パターンを思い起こせば、その疑問は当然である。自分自身にもわからないのだから、その問いに答えようがない。
 ただ一つだけいえることは、この『大阪コレクション』を立ち起こし、今日まで支えつづけてきたメンバーの多くが、一部の専門家をのぞいて、私同様、ファッションとはおおよそ無縁の人たちである、ということだ。それでいいのだろう。この『大阪コレクション』から何人かのスターが育った。これからも彼らを追いかけ、続々若手が育ってくるだろう。そういう輝くスターたちと、彼らの対極にあるわれわれが絡み合っての『大阪コレクション』であるのだから。

■パッチワークの妙
 ファッションや芸術などの手法にパッチワーク手法がある。明るく目立つ生地、それを支える地味な色合いもある。金糸銀糸に混ざって木綿地や麻生地もある。それらの一つひとつが作用して、それらを超越した別の作品が創られる。『大阪コレクション』という事業も、行政や経済界、マスコミ、一般市民、そしてもちろんデザイナーやその周りのファッション関係の人たち。こうした多くの人たちの、一つひとつの力がパッチワーク化して作り出された作品と言えるのだろう。
 その事業の運営事務局を担わせていただくことは、私の人生の大きな幸せである。だが、パッチワークであるがゆえに、いずれ1枚1枚の生地は忘れ去られるだろう、との思いを強く持ちつづけてきた。私が持つ『関西ジャーナル』紙にも、事務局を預かる私であるがゆえに、その記録をとどめることはできない。いささか歯がゆい思いをしていたときに、『千里眼』のスタートからの同人、五十嵐道子女史からの一方的な入会呼びかけである。少しは思案したものの、ありがたくその推薦を受けて同人に加えていただき、その事業の記録を記させていただくことにした。

《序章》
御堂筋ファッションフェア'82
■御堂筋ファッションフェア'82
 『大阪コレクション』を語る前に、どうしても避けて通れない事業がある。それは昭和57(1982)年11月に、翌年からスタートする「大阪21世紀計画」のプレイベントとして開催された『御堂筋ファッションフェア'82』である。
 御堂筋の中ほどに位置する南御堂(東本願寺難波別院)。その境内一杯に架かる大型テントを張り、その特設ステージでコシノヒロコ・ジュンコ・ミチコ3姉妹が競演するファッションショーを核にした"ファッショナブル御堂筋"イベントである。「大阪で初めての本格的ファッションショー」として大評判を呼び、当時の岸昌大阪府知事、大島靖大阪市長をはじめ経済界のお歴々も多くが鑑賞した感動的なイベントであった。このファッションイベントを卵とし、5年後に孵化したのが他でもないこの『大阪コレクション』であった。
 さらに、この事業に触れる前に、これまたどうしても割愛できない2人の出会いがあった。後に『大阪コレクション』の構想を提唱したコシノヒロコさんと、その提案を受け止め、今日に至るまでこの事業を陰で支えてきた太陽工業の能村龍太郎会長との出会いである。そしてこの2人の出会いを、たまたま私が仲立ちすることができた幸運に感謝するのである。
 しかも、私とこのお2人との出会いは、決して一筋縄ではなかった。紆余曲折の結果としてこの大先輩の知遇を得るのだが、それだけにこのお2人が、縁を結び、意気投合して大阪の新時代の創造へ手を組むことになったことは、私にはとても印象的であった


御堂筋ファッションフェア'82の記者会見

■能村龍太郎さんとの初の出会い
 「そんなこと、おましたかいなぁ」と、今、能村さんは笑う。今は大変親しくご指導いただいている身だが、その出会いは決して順風に包まれたものではなかった。というより、20代の若き一新聞記者には、それこそ厳しい竜巻に遭遇したかの感じであった。
 その日の朝、勤務先の業界新聞社に出勤した私に、思いがけない命令が待っていた。
 「今日の午前10時に、太陽工業の能村社長(当時)にインタビューする予定だったY記者が、昨夜の"父の危篤"の電報で、早朝一番の電車で九州の実家に帰った。いまさら日程変更もできないから、お前がピンチヒッターで取材してきてくれ」というものだった。
 少なくとも初めての取材の場合は、資料集めなどの事前準備は当然しておく。だが、収集していただろうY記者の資料は手元になく、その数年前、日本万国博覧会取材で得た膜面構造物に関する少々の知識で能村さんを取材することになる。
 しかしその程度の生半可な知識で十分な取材ができるはずがない。与えられた1時間の取材時間のうち、半分も消化しないままに、私の用意した質問事項は使い切ってしまった。
 元来正直者の私は(?)、適当に場持ちすることなく、ピンチヒッターとして伺う羽目になったことを告げ、十分な取材ができなかったことを詫びたのである。その正直さが裏目に出たのだ。その直後に能村さんのきつ〜い一言が出る。
 「そんな失礼な話はないでしょう。理由はともあれ、私は貴重な時間をあなたの会社に1時間も割いたのです。そういうことであれば、朝すぐに連絡し、取材をキャンセルしてくれた方が、双方ともに時間を有効に使えたはず……」
 ご説ご尤もである。かくして1回目の出会いは無残な結果で終わったのである。

■2度目の取材も失敗
 2回目の出会いは私が独立し、『関西ジャーナル』を創刊(昭和55年)したその年の秋にあった。
 かねて新しい感性の若手経済人として注目していた私は、能村さんに再び取材を申し込み、その承諾を得たのである。しかも、前回の轍を踏んでは、との思いがある。十分な事前取材をし、颯爽と新大阪付近にある太陽工業を訪ねたのだ。だが、過ぎたるは及ばざるが如し、意気込みが過ぎ、2度目の取材もまた失敗に終わる。
 十分に下調べができた自信で、私はついつい口が軽やかになっていた。そして
 「能村さんのこれまでの関西復権に関する主張、提案を調べ上げると、約10項目にまとめられました……」と、自慢げに切り出したのである。
 さて、その切り出しに返ってきた能村さんの答えは、竜巻ならぬ、背筋に寒さが走る寒波だった。
 「そこまで調べてくれているのなら、もう重ねてお話することはありません。あなたのまとめで、私の考えを言い尽くしています。まだ仕事を残しているので、今日はこれで失礼します」
 約束された1時間はたっぷりと残ったままで、その場を辞すことになる。
 1回目は知らずに失敗、そして2度目は知りすぎて失敗。取材相手の状況や心理を心得ない、若輩記者の見事な失敗であった。最初の失敗は当然である。また次の失敗も、全てを調べてきた、などと誇る必要はなかったのだ。そうではなく、事前に知りえた情報をベースに、より深い話を聞き出すのが記者としての常道であった。

■3度目の正直
 やがて3度目の出会いが待っていた。3度目の正直と言う言葉もあるが、実はこの出会いが、後々の『大阪コレクション』誕生に結びついていく。
 2度目の失敗の直後だった。兼ねて私の理解者のお一人であった大阪商工会議所の井土武久専務理事(当時)と、大商議員の若返りについて話をしていた。うなずいた井土さんは即座に、「君が、この人は、と思う若手経済人をすぐにリストアップしてくれ」と言われる。そのトップに、当時58歳の能村龍太郎太陽工業会長の名を記したのは当然の成り行きだった。
 能村さんにその意を伝え、了解を得る作業が井土さんと私の共同作業で進む。そして何度かの往復を繰り返し、能村さんの了解を取りつけ、昭和56年11月、晴れて能村さんを大商議員に引っ張り出すことになる。
 その間、取材目的ではない能村さんとの出会いがあり、過去2回の失敗を帳消しにする会話が進む。


■よみがえれ、御堂筋!
 昭和55年6月に『関西ジャーナル』紙を発行した当初、私は同紙で「よみがえれ、御堂筋!」キャンペーンを展開していた。それは必ずしも、能村さんの「関西復権、10の提案」に御堂筋の活性化があったからではない。これだけ素晴らしい、世界に誇る御堂筋を先人から授かりながら、それを活かしていないのはいかにも残念。車と金融機関に占拠された無機質ストリート・御堂筋を何とか蘇生させよう、との思いが当時の私の大きなテーマであった。
 一方、能村さんは同紙昭和55年1月1日号で、"新しい関西の創造へ10の秘訣"を発表、その7つ目の秘策として「御堂筋で大衆参加の大パーティを開け」と提案している。もちろん、先に述べた理由で、どこかでの提案を私なりにまとめたのが、その発想は今にも十分通用する内容である。参考までにそれを紹介しておこう。

 「1週間くらい御堂筋の車を止め、そこで大衆参加の大パーティをやる。これで人が集まらないはずがないですね。それで町別の踊り、お国自慢の踊りなど、各種の踊りの大会をやる。そしてその時には企業も無料で飲み物を用意するなど大サービスをやる。
 それに何でもいいから、1つ神さまをでっち上げて、その神社の祭にする。新天神祭でもいいですがね。
 もし雨が降ったら困ると言うのなら、私どもの会社で御堂筋全体に天井を張りつけてもいい。これはね、案外簡単にできるのですよ、両脇が鉄骨の建物ばかりですから」。
 
 この文章は、それまでの能村さんの提案集から私が再編成し、了解のもとで掲載したものだが、ともに思いを寄せる御堂筋であっただけに、話題は弾み、これまでのいきさつもなかったかのように、「数少ない同志ですが、お互いに御堂筋の活性化のために頑張りましょう」という、調子の良い話になっていく。そして、その流れの中で、「御堂筋でファッションショーを」という無謀な構想が降って湧いてくるのである。

『千里眼』No.66(1999年6月25日)掲載

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