【第2回】
《序章-続》

■ミナミの小さなスナック
 定かな記憶はない。だが今から20数年前、大阪・ミナミの一角に、しげしげ通っていた小さなスナックがあった。今はもうないが、10坪あるかないかの場末の店。細長い空間に、やや大き目のカウンターバーがあり、客が10人も座れば満席になる。しかも遅い時間に入り、空いている奥の席まで行こうとすれば、それこそ壁と椅子の僅かの隙間を「ごめんやっしゃ」と声をかけつつ、体を横にし、這うように奥に進む。うなぎの寝床というよりは、ドジョウの棲家といった感じの店であった。

 この頃のようにカラオケがあるわけではないし、客あしらいの上手な女性がついているわけではない。姉御肌のママさんが1人いて、会話することだけが楽しみという店だった。ただ、そのママさんには特技があって、何かしら見知らぬ客同士を仲良くさせてしまう能力が人一倍だった。もっとも、そうでもしなければ、いくら小さなスナックとはいえ手が回らなかったろうし、客もまたそんな雰囲気の中で楽しくふるまっていた。自分の小遣いで十分楽しめる程度の飲み代であり、サラリーマン時代の私もちょくちょく顔を出す常連だった 
 当時の私は、ある業界紙の記者。関西財界を中心にした経済分野を主に取材していたが、その店の客には、ママさんの昼の仕事(グラフィックデザイナー)の関係でデザイン界や広告代理店などの関係者が多く、彼らに仲間入りすることは、今はやりの異業種交流パーティに参加するがごときで、財界記者の私にとっては結構刺激的な店であった。


(イラスト: Yurie Okada, Rogo Ltd.)

 そんな客の1人にSさんがいた。見たところ私よりは10歳ほど先輩。一見、サックス奏者の渡辺貞夫に雰囲気の似た、長身で口髭を蓄えたダンディな中年男であった。当初、なぜか隣同士になることはなかったが、数人の頭越しに聞こえてくる彼の会話が非常に面白く、出会いがしらから気になる存在であった。日頃の取材で接する財界の関係者とは感性が全く違うのだ。いま思えば、「直接彼と話をしてみたい」の思惑を持ってその店に出入りした感じがする。異次元の感性の彼にそれだけ魅力を感じていたのだろう。
 そしてある夜、たまたま彼と隣同士になる。聞けばデザイン会社の社長で、自らもグラフィックデザイナーだという。もちろん、ここぞとばかり彼に議論を吹っかけ、論破され、また吹っかけては論破されながらの楽しい一時を過ごすことになる。だがまだこの次点では、Sさんが『大阪コレクション』の提唱者であるファッションデザイナーのコシノヒロコさんとの出会いを演出してくれるとは予想だにしなかった。


■"ナベサダ"に似たS先輩
 そのSさんと何を話したのか、全く記憶にない。だが、年下であるがゆえの気安さと、いささかの甘えで、会うたびに議論を吹っかけ、その都度言い負かされていた。それを何度も繰り返したあるとき、ママさんが言ったものである。
 「折目さん、Sさんには勝てっこないわ。だってあの人は勉強しているもの」
 「それが分かるから勝ちたいんだ。こうなれば、2年、3年計画で俺も勉強するよ」
 「それは結構なことだけど、その間、Sさんはそれ以上に勉強するだろうから、やっぱりどこまで行っても勝てないわよ」
 「そうかな…。だけど、Sさんの事務所を一度覗いてみるよ。そうすれば、彼の言行一致度が分かるし、そうなればまた攻めようがある」
 そんな会話をママさんとした数日後、当時ミナミの道頓堀の近くにあった彼のデザイン事務所を訪れたのだ。2、3人のスタッフを抱える小さなオフィスだったが、入ってみて驚いた。広くもない事務所に、大きな黒塗りのテーブルがでんと据え付けられ、社長である彼も、スタッフも、それぞれがテーブルの1ヵ所を自分の世界にして気ままに執務している。また全体のレイアウトも、記憶は薄れたが、「なるほど、言うとおりのレイアウトだな」と感服したことを覚えている。そして、その日をもって挑戦的に彼に接することを止め、しばし弟分としてSさんに兄事することになるのである。

■『関西ジャーナル』の創刊
 小さなこのスナックに出入りしたのは30歳代の前半であったろう。この頃の私は人生の岐路を歩んでいた。社会に出てからおよそ10年、大学卒業後に飛び込んだ業界新聞社でサラリーマン記者を全うするか、あるいは小なりとも自分の城を構えるかの選択を迫られていた。その思いは30歳を過ぎたあたりで芽生え、自分では35歳までには決めようと考えていた。事実、筋書きの35歳になったとき、「40歳になったら独立し、自分の城を持つ」と決断するのだが、しばしこの決断を自分の心だけにしまっておいた。
 だが人生ままならぬもので、私を取り巻く環境は37歳を直前に、私をして勤めていた業界新聞社を退社させ、独立へと追い込んでいく。40歳をX年としてきただけに、独立の準備は全くしていない。無謀な社会人生第2ラウンドの開始であった。
 もちろんSさんにも事後報告となるが、厳しいが温かい言葉で私の門出を祝い、励ましてくれた。

 「いずれ自分で生きていく男だと思っていた。この報告をいつしてくれるのか心待ちにしていた。若いのだから失敗を恐れず、思い切ってやってみろよ」
 創刊20年目に入った『関西ジャーナル』だが、当時から一貫して変わらないのは、新聞題字のロゴマークである。これはSさんが人生再出発の祝いに自らデザインし、プレゼントしてくれたものである。"突如"と言ってもいい、事前準備ゼロの状態からの再出発であり、それだけに、涙が出るほど嬉しかった。こうしてSさんをはじめ何人かの縁のある方々の無償のご厚意で、『関西ジャーナル』を創刊にこぎつけることができたのだ。
『関西ジャーナル』創刊号
(1980年6月1日)

 そのSさんに一つだけ注文をつけられた。それは
 「日本の経済新聞というのは、どうして男ばかりの顔写真が出てくるのだろう。色気がないというか、とにかく硬くて読む気にならない。実際の経済は男だけで動いているのではない。これからも女性の経済進出は増えてくるよ。君が新しい経済新聞を創ろうというのなら、女性がしょっちゅう顔を見せ、女性も読んでくれるソフトな紙面をつくってくれよ」というものだった。

 20年前の経済新聞や一般紙の経済面を思い起こしていただければ、Sさんの注文がどれだけ正鵠を得るものであったかご理解いただけるであろう。しかし何分にも旧来の発想のままで取材してきた当時の私は、経済面に登場してくれるような女性を一人として知らなかった。そこで次の会話がSさんとの間で交わされる。
 「Sさんの仰る通りだと思うけれども、そんな知り合いは残念ながら私の周りにはいないな」
 「企業の中で探そうとするとそうなるだろう。しかし視野を広げれば取材の候補はいくらでもいるだろう」
 「Sさん、誰か知りませんか?」
 「大阪で頑張っているファッションデザイナーなら紹介できる人がいるがね…」
 「是非お願いします。紹介してくださいよ」
 少々回りくどくなったが、小さなスナックから、Sさんを経由し、ようやくここでコシノヒロコさんとの出会いが準備される。Sさんが紹介してくれた女性、それが当時大阪の東心斎橋にオフィスを構え、デザイン活動を続けていたコシノヒロコさんであった。財界記者で、ファッション界には全く縁のない私がコシノヒロコさんというファッションデザイナーと縁を結んだマジックの仕掛けは、こんなことであった。

 それにしても、たまたま友人に案内されて顔を出した場末のスナックが、なぜか私を刺激した。それがそもそものことの始まりである。そしてその店の異分野で活躍していた仲間たちに関心を持ち、最終的に兄事するSさんに出会ったことが、私をここまで歩ませてくれる要因になった。かつての勤務先の同僚の中には、
 「あそこは結構高いからな」
と言いながら、ちょくちょく出入りしているおかしな者もいた。
 「そう思うなら行かなければいいだろう」と切り返していたが、少なくとも私は、そこで仲間になった何人かの客に出会えば、決して高い飲み代とは思わなかったし、ましてやSさんと出会い、議論でしばし時間を忘れるときには、逆に「今日は安い飲み代だった」と心底思ったものだった。

■コシノヒロコさんを取材
 こうして私にとってはまったくの異分野であるファッション界との接点が記されるのだが、ここでもまたまた赤面の思いをすることになる。
 東心斎橋のコシノさんのオフィスを訪れ、自己紹介もそこそこ、私の口から飛び出したのは、
 「財界記者ということになっていて、ファッションのことはまったく素人です。ですからデザイナーの名前も、森英恵さんとかあなたのお姉さんであるジュンコさんのお名前を知っている程度で…」の発言だった。そして返って来たのは
 「私が長女で、ジュンコは妹です」の、きつ〜い一言。
 笑顔ではあったが、確かに気を悪くしたコシノさんの表情であった。それはそうだろう、その理由をあげる必要はまったくない。取材にあたって、Sさんから事前に情報を得、それなりの準備はしていたのだが、Sさんも私がここまで無知であることは知らなかったのだろう。本番前の挨拶で、気楽に喋った最初の一言がこんな失言であった。私のファッション界に関する知識はその程度であった。
 冷や汗の出る思いであったが、それでも気持ちよく対応してくれたコシノさんに救われて、その後の取材はほぼ予定通りの成果をあげた。その記事が『関西ジャーナル』の創刊第4号に掲載されている。それを見直すと、それから1年余の後、
 「折目さん、どなたかファッションデザイナーを知っていますか?」
と能村龍太郎太陽工業会長に問われ、即座に
 「一人、紹介できるデザイナーを知っていますよ」
と、自信を持って答えた私の得意顔が想像できる。大阪でがんばってきたコシノさんのデザイナー人生を高く評価し、「関西の新しい創造に向け、貴重な存在」として私の記事が結論付けていたからだ。

 『関西ジャーナル』昭和55年7月15日号の「クリエイティブ群像」でコシノさんを紹介している。あらましを再録させてもらうと…。

  まず、文化不毛の地と言われる大阪でのファッション活動は難しいのでは、の問いにコシノさんは、挑戦的に応じている。
  大阪で認められないものは、東京でも認められないし、日本でも世界でも認められない。…仮に(大阪での活動に)ハンディがあったとしても、それを吹き飛ばす何かに挑戦する。これがないとどこにいてもだめですね」
  大変な意欲である。そして東京の文化服装学院卒業後、4年間を東京で過ごした後に「母親に口説き落とされ大阪に戻ってきた」のだが、「今は本当に母親に感謝している」と言い、次のようにその理由を語っている。
  「"安物買いの銭失い"というけど、大阪の人にはそれがない。お金を大事にして良いものを見つめる。そういう人たちが住む大阪で、私もまた良いものを見る目を養えたと思う。この関西人気質の良い面を作品に活かしていくことが、また私の個性になった。
  「私の作品は…モデルが着ているものを今すぐ自分も着てみたくなるような親近感のあるものばかり。…アートっぽいものを作れと言われればいくらでも作りますし、実はその方が楽です。むしろ100万人に愛され、好まれるものを作ることの方が難しいのです。…それが関西人気質から学んだ私の個性です」

 そして最後に私は、この取材の結論として、「大阪で孤軍奮闘し、世界に飛び出そうとしているこのコシノさんの存在を、関西の新しい創造に活用しない手はない」と締めくくっている。ややナルシストの傾向にある私だが、今から19年前の時点で、この取材を通して関西の新しい創造に向けた提言をしたことに誇りを感じるし、またその出会いを作っていただいたSさんには、今も変わらぬ感謝の念を抱いている。
 そして、このコシノさんに対する期待の高さが、『大阪コレクション』創設の次のステップ、「能村さんとコシノさんの出会い」に繋がっていくのである。

*文中「Sさん」は、日本ブレーンセンター社長の繁治照男さん。

『千里眼』No.67(1999年9月25日)掲載

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