【第3回】
《序章--御堂筋フェア'82 続》

■談論風発、「蘇れ、御堂筋!」
 昭和56年12月24日、その1ヵ月前の11月末、大阪商工会議所の議員に初当選した能村龍太郎太陽工業会長と会食の機会を得た。すでに関西経済同友会の活動を通じ、関西の若手経済人として脚光を浴びていた能村さんであったが、なにせ長老支配の続く大阪商工会議所のこと、59歳といえばまだ若手中の若手であった。「大商を舞台に何ができるだろう」。多少の気負いがあったかもしれない。一方私も、『関西ジャーナル』を創刊してわずかに1年半。あれもやりたい、これもやりたいと、意欲だけは旺盛な30歳後半だった。大阪の活性化が論じられ始めた頃である。話題は当然のようにこのテーマになり、しかも「蘇れ、御堂筋!」に絞り込まれていった。
 『関西ジャーナル』の昭和57年11月21日付の「御堂筋フェア82」特集号で、能村さんと私の、その時の会話が、残されている。


(イラスト: Yurie Okada, Rogo Ltd.)

[能村] 大阪はね、実行する時期に来ているのです。もう理屈はいらない、とにかく何でも良いからやってみる。今、大事なのはこれですよ。
[折目] その通りだと思います。提案ばかりたくさん出ていますが、それが一向に実行に移されない。ありあまるくらいの提案があるのですから、当分はこれ以上の提案は必要ないですよ。
[能村] そうそう、それで私はね、大阪駅前ビルがセットバックして建ち、御堂筋に面したスペースが広くなったでしょう。そこを会場に黄昏コンサートをやりたいと思っているのですよ。
[折目] それは面白いですね。ついでに黄昏ファッションショーも加えたらどうでしょう。
[能村] それもグッドアイデアだが、ファッションショーなら南御堂の境内はどうですか。境内一杯に張れる大型テントを持っていますから、それなら無料で提供しますよ。折目さん、誰か、ファッションデザイナーを知っていますか?
[折目] ええ今、大阪を拠点に頑張っているコシノヒロコさんを知っていますが、この人も大阪に熱い想いを持っていますよ。
[能村] それはいい。是非紹介してくれませんか。

 ざっとこのような会話が2人の間で弾んだようである。いや、「ようである」というのは不要である。18年前のことではあるが、その記憶はなお私の脳裏に鮮やかである。それまで10数年の新聞記者生活を通じて、ただ言うだけ、提案するだけの、当時の大阪のリーダーたちにいささか苛立ちを感じていた私である。成否はともかく、提案されたアイデアは、即実行に移さねば気がすまない少壮経営者の能村さんも、どうやら同じ思いにあったようだ。「それは面白いからやってみよう」と即座に反応してくれた能村さんに、敬意とともに、非常に新鮮さを感じたのだった。
 ちょうどその夜はクリスマスイヴ。大変なクリスマスプレゼントを頂いたような気持ちであった。そして、年明け早々に、コシノヒロコさんを大阪・心斎橋のアトリエに訪ねたのだった。ほぼ1年振りの訪問だったが、事前に要件のあらましを伝えていただけに、コシノさんも興味津々で待ち受けていた。
御堂筋側から見た南御堂 松尾芭蕉終焉の地の石碑

■会議は人の心から始まる
 昭和52年、現在の「東京コレクション」の前身となるTD6(トップ・デザイナーズ・6)に大阪からただ1人参加。そして同53年に「ローマ・アルタ・モーダ」に日本人として初参加して、大阪にいながら世界進出を図りつつあったコシノさんだった。先の私の取材には「大阪で認められないものは、東京でも認められないし、日本でも世界でも認められない。(大阪での活動に)ハンディがあったとしても、それを吹き飛ばす何かに挑戦する。それがないとどこにいてもだめですね」と強気に語ってくれたコシノさんだったが、実は、数年後の後日談では、「やっぱり大阪に引っ込んでいてはだめなのかな。東京に出ようかしら」と真剣に悩んでいた頃でもあったという。今思えば、それこそグッドタイミングであったのだ。
 能村さんの構想を詳細に伝えると、途端にコシノさんの大きな目がきらきら輝いた。
 「えっ、テントを無料で貸してくれる? 大阪には、そんな経済人がいるの。私も、岸和田生まれ。大阪を想う気持ちは誰にも負けない。是非、その能村さんという方にお目にかかりたいわ」
 すでに私は、この2人が、「愛する故郷・大阪」の1点で意気投合することが予感できた。不思議にその段階で、これで1つ目の階段を上ったと、何故かわくわくするものを心に感じていた。
 案の定というか、昭和57年2月2日、大阪北区の裁判所近くのある料亭で食事を共にした2人の会話は、初対面にもかかわらず大いに弾んだ。そしてコシノさんの反応も素早かった。
 「能村さんがそこまでおっしゃるなら(大型テントの無料提供)、私も是非ボランティア精神でやらせていただきたい。私1人でも自信はあるが、大阪の人たちに本物のファッションショーを見てもらいたいし、それには2人の妹(ジュンコ、ミチコ)にも話をして、生まれ故郷の大阪のために3姉妹のジョイントショーを呼び掛けたい。それの方がずっとインパクトは大きいですから…」
 かねがね私が教えをいただく千里文化財団の専務理事で、この同人誌『千里眼』の編集・発行者である湯浅叡子さんの持論の一つが、「会議は、人の心の中から始まる」である。このイベントの終了後に、湯浅さんからこの言葉を聞いて、私は「会議もイベントも同じ、本当にその通りだな。あの大盛会を極めた御堂筋フェア82のコシノ3姉妹ジョイントショーは、あの時の能村さんとコシノさんの心の中からスタートしたのだ」ということを、心の底から実感したのだった。

■大阪21世紀計画のプレ・イベントに
 ここから当分は裏方としての私の仕事であった。
 「まず、佐治さん(敬三サントリー社長=当時・故人)のご意向を伺って」という能村さんの指示を受け、翌日には、当時、佐治社長の懐刀を自他共に認めていた同社の平木英一常務取締役(故人)に面会を求める。
 「(佐治)社長は大阪のファッションを振興せねばならん、と常々強調していた。異存ないと思うから、能村さんとコシノさんによろしく言っといて。それと、来年(昭和58年)から、大阪21世紀計画がスタートするが、実は御堂筋での大パレードも計画されている。大阪21世紀協会の加藤さん(良雄事務局長=当時・故人)にも相談してくれないか」
 もちろん加藤さんも、もろ手を挙げての賛成だった。が難題は、肝心の南御堂(東本願寺難波別院)が、われわれが勝手に描く「お寺の境内でのファッションショーを」の構想に快く乗ってくれるのか、という心配であった。その後、音楽やファッションイベントが知恩院、東大寺、金閣寺はじめ多くの寺院で開かれるようになったが、それもこのイベントの成功があってのことだった。だから当時、そんな宗教的な聖域で、ファッションショーをやろうという発想は、よほど特異な発想者でなければ出さないアイデアだったのだ。
 能村、加藤、平木各氏に私を加えた会合で、大阪21世紀計画のプレ・イベントとしてこのファッションショーを位置付ける」とは決まったが、肝心の南御堂には誰もルートがない。とにかくぶつかってみることを決めた。そしてその意を受けて、恐る恐る南御堂の山門をくぐらされたのは私だった。
佐治 敬三 氏 加藤 良雄 氏 平木 英一 氏

■寺の境内は人と情報の集まる場
 南御堂では、当時の総務部長が応対してくれた。
 「えっ、境内でファッションショーを開く?」
 「えらいことをいってくる人だな」といった戸惑いの表情がありありだった。しかし、大阪21世紀計画のプレ・イベントであること、それに御堂筋の活性化のテーマから派生してきた事業であることに総務部長さんは共感を抱いてくれたことは確かだった。
 「面白いとは思うし、境内をちょっとしたイベントに提供しているが、ファッションショーとなると、われわれのレベルでは即答できない。ご輪番が最高責任者なので、その判断を得て、早々にご返事します」
 待つ時間は長いものである。その返事は翌々日に届いた。
 「ご輪番は、南御堂としても積極的に協力させてもらいたいといっています。われわれが何をしたら良いのか、早々に打ち合わせたい」
 正直いって驚いた。私が訪ねたその日と翌日は、宮部幸麿輪番(当時)は不在と聞かされていたから、宮部輪番は、総務部長から報告を受けたとき即座にOKしてくれたのだろう。その吉報は1時間後には能村・コシノ・加藤・平木氏に伝えていた。それまで良くて五分五分の可能性と読んでいたから、皆が、南御堂の即答に驚き、感謝した。実は、最後は公的ルートまで使って、何としても了解を得ようと思っていたのだが、こんなに簡単にOKが出るとは、思いだにしなかったのだ。
 後日、能村さんにお供し、宮部輪番にお礼と協力依頼に参上したが、その時になって即答の理由を理解した。
 「当寺としても御堂筋の真ん中に位置し、社会的なことに境内を開放したいと考えていた。それにもともとお寺の境内というのは、人と情報の交流の場であったのです。それがファッションショーであれ何であれ、多くの人が集まり、情報が交換されるならわれわれとしては何ら断る理由がない」
 輪番在職中、宮部師には何度もお目にかかり、教えを頂いたが、同輪番の受諾理由は明快だった。別院の組織は檀家を持たない。地域の末寺を束ねる組織として存在しており、ともすれば地域社会との交流は少ない。むしろ宮部師は、孤高の存在である御堂のあり方にこそ疑問を感じ、地域社会との交流策を日頃から考えておられたようだ。そんなところにわれわれの突拍子もないファッションショーの話が飛び込んだのだが、これぞ渡りに船の思いであったのだろう。

■粋な計らい、南御堂・宮部輪番
 話題は逸れるが、それから4年後の昭和61年4月、南御堂難波別院は「親鸞聖人御誕生800年・立教開宗750年・修復25周年慶讃法要」を8日間にわたって開催したが、いわゆる宗派の慶讃行事は4日間で、4日間は一般市民を対象にした各種イベントに境内を開放している。
 そして、その準備に着手したとき、われわれも多くの提案を求められた。具体的には勾配が急で、イベントとしては勝手が悪い、との注文に即座に反応し、今日のような緩やかな勾配の境内に改修してくれた。山門が立派すぎて、その下が暗すぎ、境内への親しみを失わせているとの提案には、照明を施し、壁面も明るい色彩に塗り替えている。
 また一般市民対象のイベントは「縁(エン)JOY(ジョイ)・イン・ミドウ」とネーミングして、これも演奏者たちが初めてという山下洋輔(ジャズピアノ)・林英哲(和太鼓)・山田千里(津軽三味線)・黒田征太郎(画家)のジョイントセッションを中心に、フリーマーケットなど若者対象の大胆なイベントを主催している。
 そして宮部師はけろっとして答えたものである。
 「まあ、お寺でジャズコンサートということでびっくりする人も多いようですが、石山本願寺が建った時、能を演じて町衆に観せたし、綱曳きもやった。また、京都の本山の報恩講で物々交換、今のフリーマーケットのようなこともやっています。寺というのは本来、庶民の経済生活の交わりの場でもあったのです」
 御堂筋フェア82効果といえば、恐らくわれわれの言い過ぎになろう。この南御堂のイベントが終了した後、「南御堂さんのこの変貌こそ、御堂筋フェア82の最大の開催効果でなかろうか」と感服したのものである。
 南御堂イベントのテーマ「縁」ではないが、御堂筋フェア82も人智では到底計算できない、さまざまな人たちの、しかも極めてタイミングのよい出会いの積み重ねで、いよいよ実現に向けた準備が始まっていくのである。

『千里眼』No.68(1999年12月25日)掲載

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