【第9回】
《第2章 走りだした大阪コレクション-続》

■事務局をどこに?
 1987年11月、「世界の桧舞台で活躍する新人デザイナーの輩出」を最大課題にした「大阪コレクション」がついに走りだした。だがその時点でも我々(萩尾千里氏、柴田暁氏と私)は、今日あるような形(プロジェクトチーム)で「大阪コレクション」に取り込まれようとは想像していなかった。いずれは、最終的に佐治敬三会頭のもとで、大阪商工会議所か、社団法人トータルファッション協会(略称ATF)が事務局を引き受けてくれるものと考えていた。だから、当初我々は、大阪コレクション開催委員会のアドバイザリー・スタッフとして名を連ね、一歩退いた形で実質的な運営業務に携わっていた。体制が整うまでの応急措置だった。
 第2回大阪コレクション(1988年)の開催にあたって我々は、再度大阪商工会議所事務局に、大商かATFがこの事業の事務局を引き受けるように要請するも、結局了解を得ることができずに断念、続いてこの年度もボランティア活動を続ける羽目になる。
 そして、第3回(1989年)の開催委員会を前に、当時の大阪商工会議所事務局長が「ATFが運営を引き受けるよう働きかける」ことを私に確約してくれ、ひとまず安堵する。だが、ATF説得が不調に終わったのか、あるいは私との約束を無視したのか、その回答がなかなか届かなかった。
第3回 コシノヒロコさんのステージ
 再三の要請で、ようやく開催委員会のぎりぎりになって、その局長さんから私に「会いたい」との連絡が入った。ところがその返事は意外にも、「君がATFを説得してくれ」という内容だった。しかも、説得したが駄目だったのか、説得しなかったのか、それさえ明確にしてくれない。仮に、説得できなかったのであれば、上部団体である大阪商工会議所の指示を拒絶したATFを、一私人の私がどうやって説得できるのか。

 まだまだ若く青かった私は、ついついその事務局長さんを「無責任だ!」と怒鳴り上げてしまった。痛快ではあったが、一回り以上も年上の先輩に大変失礼な態度であった。それ以降私は、大阪商工会議所の皆さんに「強面(こわもて)」のレッテルを貼られることになる。本業では決して争いを起こしたことがなかったが、「大阪コレクション」に関しては、その後も何度か苛立ちを爆発させたから、それも自業自得と言えば言えたのだ。

 当然私のATF説得も不調に終わり、未調整のまま大阪コレクション開催委員会が開かれる。そして、佐治会長の代行で議長を務めた能村龍太郎実行委員長から、再度実行委員として出席していたATF専務理事に「事務局の引き受け」を要請するが、その言い訳がましい拒否理由に、今度は能村実行委員長までがキレてしまい、その場で、「お聞きの通りですから、大阪コレクションはこれまで通りの体制(プロジェクトチーム)で運営しましょう。折目さん、協力してくれますね」と、"最早これまで"、を宣言、強引に関西ジャーナル社に運営事務局を置くことで開催委員会の承認をとってしまう。
 そして柴田暁さんからバトンタッチしたばかりの友光祥八サントリー大阪秘書部長が、その顛末を佐治会長(大商会頭)に報告、早々に「しかたがない。私も全面的にバックアップするから、開催委員会の決定通りで頑張ってほしい」との佐治さんの意向が能村さんと私に伝えられる。こうして、連絡事務局を大阪商工会議所、実質的な事業を推進する運営事務局を関西ジャーナル社が担当、プロジェクトチームがこれをバックアップする現在の体制が正式にスタートすることになる。


(イラスト: Yurie Okada, ROGO Ltd.)

■大阪"で"若手を育成
 今ひとつの初期のトラブルを紹介しておきたい。官民が一体となって推進するプロジェクトの中で、「大阪コレクション」は最も効率的に運営される"超優良プロジェクト"と自負しているし、その体制を作ってくれている行政の皆さんに心から敬意と感謝の念を抱き続けている。しかし、両者がそこまでの信頼関係で結ばれるまでには、やはりいくつかの障害を乗り越える必要があった。
 「大阪コレクション」の基本理念を左右する大議論が展開されたのは、第3回「大阪コレクション」(1989年)の事業内容を決定する同年度の2回目の開催委員会の席上だった。その時期、韓国ファッション界は揺籃期にあり、優秀なデザイナーの台頭が目立っていた。その前年にソウルに招かれ、韓国ファッション界の熱い思いを肌で感じたコシノヒロコさんの提案を受け入れ、この年の大阪コレクションに出品を希望する3人の韓国デザイナーの参加を内定していた。

 この内定にあたって民間サイドには一つの考えがあった。それは「大阪コレクション」が若いデザイナーの発掘・育成と同時に、アジアのファッション情報の発信基地に、という目標を持っていたこと。今一つは、大阪の若手に発表のチャンスを与えると同時に、広く国内や海外の若いデザイナーの登竜門にすることで、他のコレクションとは一味違う特色を持たせたいとの狙いもあった。しかし、府民・市民の税金から一部資金を拠出してもらう性格上、その考えを表に出すことは抑えていた。
 つまり、民間サイドの考えには「大阪で若いデザイナーの発掘・育成を目指す」視点があり、行政サイドは「大阪の若いデザイナーの発掘・育成を行う」ことを考えていた。「大阪で…」か、「大阪の…」かで、「大阪コレクション」のスタンスは大きく違ってくる。双方ともに簡単に譲れない線だった。

 「大阪で…」の考え方に立つ私は、コシノ提案でまずは民間サイドの合意を得、さらに大阪府に対しても消極的ながら了解を取り付けた。だが、大阪市の当時の担当者はなかなか自説を曲げてくれない。「大阪市民の税金もこの事業につぎ込んでいる。まずは大阪への還元を考えてもらいたい。育成すべき若手が大阪にいないのであればそれも仕方ないが、大阪コレクションの事業に着手したばかりだから、そんなはずはない。海外デザイナーの参加は時期尚早だ」というのがその見解だった。

 前日夕刻まで説得に当たるも結局は不調に終わり、その決定は本番に持ち越される。ここでも私の若さが露呈したのだが、翌日の開催委員会では文字通りガッチンコの緊張したシーンが展開される。もともとの提案者であるコシノさんは事務局原案を支持、大阪市の担当者は時期尚早を主張、緊迫した議論が進み、進行役の私は立ち往生してしまう。その危機を救ってくれたのは、百戦錬磨、大阪21世紀協会の加藤良雄専務理事(故人)だった。
 加藤さんは「国際文化経済都市・大阪」の実現を目標とする大阪21世紀協会を背景にしているから、当然韓国デザイナーの参加には賛成だった。どこまで行っても平行線と読んだ加藤さんは、大阪市担当者のちょっとした暴言を聞き逃さず、一気に事務局原案の承認へ誘導してくれたのである。翌日お礼に参じた私に、「先方のミスを突いたのだから、あまりきれいとは言えなかったが、あそこで一気にたたみかけなければ、どうにもならなかったのでは…」と述懐する一方で、「委員会の多数決で決める」と息巻いた前日の私の思い上がりを窘(たしな)めていただいた。
 そしてこの日の激しい議論を最後に、「大阪コレクション」の基本スタンスは「大阪で…」の方向で合意し、それから数年後、広く国内外を対象に若手デザイナーの参加を呼びかける事業に道を拓くことになる。


第3回の韓国・陳泰玉さんの作品

■財界応援団の認知
 第3回「大阪コレクション」は、運営面から見て色々な意味で大きな転機となった。今まで述べてきたこともそうだが、さらに関西経済界の主要企業が、この段階で一応の認知をこの事業に与えてくれたことも大きかった。
 「大阪コレクション」の資金調達が、第1に出品デザイナーの自己負担、第2に委員会の構成メンバーである大阪府・市、大阪商工会議所、大阪21世紀協会、(後に関西経済同友会も参画)各種団体の分担金、そして第3に、プロジェクトチームによるチケット販売の3つの手段で賄われていたことは前回までに触れた。このうち各企業に対するチケット購入のお願いは、過去2年間、私と柴田サントリー秘書部長の2人で行っていた。私にルートがある企業は私が、それ以外は柴田さんが、という分担だった。
 協力企業の中核になっていただいた関西電力は私の担当だったが、3年目、当時の同社秘書部長・白水稔郎さんが私に忠告してくれた。
 「折目さん、1度や2度なら、あなたがお願いに来ても、良いことをやっているのだからということで協力もできる。しかし3年目ということは、今後も続けるということを意味する。であるならば、やはり会長である佐治大商会頭の意を受けた、大阪商工会議所の担当者か、サントリーさんのどなたかが依頼に来るべきだ」

 まさにおっしゃる通りである。しかし、大商事務局は発足のいきさつからして、動いてくれる可能性はない。「連絡事務局である大商の仕事は、連絡すべき問合せがあったときに、運営事務局に連絡することだけ」と念を押されていたからだ。そこでサントリーの、柴田さんから担当を引き継いだばかりの友光大阪秘書部長に相談に行く。彼は私と同じ年齢、以前から友人付き合いをしていたが、彼は即座に私に言った。
 「折目ちゃん、それは白水さんがあんたを否定したんとちゃうよ。逆に、大阪コレクションが認知されたということで、喜ぶべきことや。これからは関電さんも他の財界の主要企業も、俺が担当するよ」
 なるほど財界とはそういう世界か、小躍りする私だった。こうして、この年から財界関連企業へのチケット購入のお願いは(開催委員会)会長会社が担当してくれることになり、さらに会長が代わっても、前任者が協力を申し出てくれる「大阪コレクション」ならではの体制が出来上がる。
 ちなみに現在は、初代会長会社のサントリー、2代目会長会社の大阪ガス、現会長会社の近畿日本鉄道の各担当部長が協力してチケット販売に汗を流してくれている。他のイベント推進には見られない支援体制であり、私が他に自慢する点である。

第3回の韓国・朴恒治さん、金東順さんの作品

■韓国からの衣装が…!
 ところで先に、第3回の1989年度から、初めて海外デザイナーの参加が実現したと記した。ここで私たちは貴重な体験をすることになる(事実は、私はオタオタするだけで何もできなかったのだが…)。
 この年、「大阪コレクション」初の海外デザイナーとなったのは、韓国からの3人のデザイナーだった。国際化の第一歩として心が浮き立ったのだが、思いもよらぬトラブルに私の顔が青ざめることになる。ショーに出品する3人の衣装100体が、韓国を出国する際の手続きの行き違いにより、伊丹空港に到着したものの、行方がわからなくなったのだ。スケジュールぎりぎりの到着である。しかも、その日は土曜日。その日のうちに発見されなければ日曜日は休み、発見されても我々の手元に届くのは、本番当日の月曜日午後になる。絶体絶命の危機である。
 こうした業務に疎い私は、ただただ「えらいことになった…」と右往左往。だが、たまたま当社の社員で、大阪コレクションのスタッフを担当していた川嶋みほ子が、以前に通関業務に携わっていたことがあったのが幸いした。彼女は、衣装の入ったコンテナが、一般の輸入貨物と一緒に航空会社の倉庫に搬入されているのを必死に探り当て、タイムリミットが迫っていることから、昔の人脈を辿って、ある通関会社に超法規的な打開策を取り付けてきた。こうして、100体の衣装は何とか土曜日中に通関され、フィッティング・本番に間に合うことになる。まさに九死に一生を得た思いだった。

 韓国デザイナーの皆さんの出品はそれから3年連続して行われるが、この第3回のときの出品がきっかけになり、そのチームのリーダーだった陳泰玉(チン テオク)さんが中心になり、翌年から「ソウルコレクション」がスタートする。「アジアのファッション情報の発信基地」を目標の一つにしてきた我々にとって、それは非常にうれしいことだった。また韓国ファッション界との交流も、これを機に大きく進むことになる。

(文中の敬称はいずれも当時)
『千里眼』No.74(2001年6月25日)掲載

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