【第14回】
《第4章 大阪コレクションを支えた人たち−続》

■能村龍太郎さんのこと
 今年(2002年)で16年目を迎えた大阪コレクションだが、能村龍太郎太陽工業会長の物心両面の支援がなければ、おそらくこの事業は成り立たなかっただろう。「官民一体で推進した公的事業で、前例のないプロジェクトチームで運営」、と言えば聞こえがよいが、同時にそのことは、開催委員会の中核を占める大阪府も市も大阪商工会議所も、「表立って名前も出し、資金的にも多少のバックアップはするが、最終的な責任はとりませんよ」ということを意味していた。そんな虚弱な組織を終始支え続けてくれたのが能村さんだった。
 能村さんがこのプロジェクトに引きずり込まれたのは、コシノヒロコさんとの出会いからだった。その出会いを取り持った私としては、多少、申し訳ない気がしないわけでもないが、しかし、大阪コレクションがこれだけインパクトのある事業に育ち、さらに後々になって、それへの貢献も功績の一つと評価されて『大阪文化賞』(大阪府・市共催)を受賞したのだから、まずはお許しをいただけるだろう。

(2002SSコレクション コシノさんの作品)

■「御堂筋フェア'82」がことの発端
 このシリーズの冒頭に紹介したように、能村さんとこの事業の関わりは、昭和57(1982)年11月に開催された御堂筋フェア'82(メインプログラムがコシノ3姉妹ジョイント・ファッションショー)から始まっている。
 大阪府・市、大阪商工会議所などの後援は得たものの、まさしくこれは佐治敬三サントリー社長と能村さんを中心に、民間有志のプロジェクトチームで推進されたイベントだった。翌年からスタートする21世紀計画のメインプログラム、「御堂筋パレード」のプレイベントの意味も含んでいた。本当の目的はここにあったが、しかし、正式には何処の組織に所属するでなく、打ち合わせをするにも場所もなく、資金もない、"ないない尽くし"のチームだった。
 そんなチームを全面的に支えてくれたのが能村さんだった。打ち合わせはいつも北新地にあったとある小料理屋。会議終了後には、ご苦労さんと、どこぞのクラブにご招待いただく。東京から参加したファッションプロデューサーの大出一博さんは、「費用はすべて能村さんが負担」と聞いて、「大阪には凄い経済人がいるのだね。東京にそんな経済人は見あたらないなぁ」といたく感服していたものである。
 さらに、東本願寺難波別院の境内に同社から提供された超大型テントを張り、特設会場をつくったのだが、数百万円といわれたテントのレンタル料および施工費も無料。さらにその上で、「最悪の場合、2000万円ほどの赤字になるかも知れない。その時は、佐治さんにお願いしてサントリーさんと私どもで負担しようと覚悟していた」というから恐れ入る。その頃の大阪には、少なくはなっていたが、まだ“旦那”の気風が残っていたのだ。
 そして大雨の降る11月4日、大阪では初めてと言われた、本格的なファッションショーが華やかに繰り広げられる。あの強雨は、逆に「さすがに太陽さんのテントだ。ビクともしないし、一滴の雨粒も落ちてこなかった」と、太陽テントをPRすることになる。せめてものことだった。

■『能村塾』と『大阪コレクション』の誕生

(能村塾発足3年目、塾長を囲んで新年会)

 この「御堂筋フェア'82」から2つの申し子が誕生した。一つは『能村塾』である。
 「御堂筋フェア'82」の事務局組織も、府・市・会議所のスタッフが加わってくれたとはいえ、その実体はすべて私的つながりで編成されたプロジェクトチームであり、権限もお金も何も付与されていなかった。それだけに失敗は許されない。スタッフの仲間意識は嫌がおうにも高まった。何とか成功裡にそれを成し遂げた後、誰言うともなく、我々の先頭に立って走り続けてくれた能村さんをご慰労しようと、ミナミのある大衆酒場にスタッフともども集まった。プロジェクトチームである、その事業が終了すれば、当然メンバーは解散する。だが、「このままバラバラに散ってしまうのも寂しい。この会合を、能村さんから我々若手が学ぶ勉強会にしよう」との提案がその場でなされる。こうして発足したのが『能村塾』である。2ヵ月に1回の開催で、この6月に115回目の例会を開く。来年3月例会で120回、発足20周年を迎える。
 そして今一つの申し子が『大阪コレクション』なのだが、その経緯については前回記させていただいた。ここでは、大阪コレクション開催委員会の運営事務局担当実行委員として、実行委員長(兼副会長)の能村さんから学んだことを綴っていきたい。

■能村さんから学んだこと
 創業者でオーナー経営者の能村さんから、『大阪コレクション』の運営を通じて学んだことは、第一に経営の厳しさだった。一貫して言われ続けたのは、「折目さん、1円でもいいから黒字を出しなさい。逆に1円と言えど赤字を出してはいけないよ」ということだった。私も小なりといえど、新聞社を経営する身だから、おっしゃることはよく解る。赤字は決して出してはいけない、と心がけてきた。お陰で、大阪コレクション開催委員会は若干の剰余金を留保し、関係団体からの分担金が入るまでの期初前半の開催準備も、自己資金で回すだけの余裕を持つに至っている。

(イラスト: Yurie Okada, ROGO Ltd.)

 とは言え、あくまでも関係団体からの分担金やデザイナーの出品料、一般入場料収入などでまかなう公的事業である。とりわけ行政からの分担金が毎年減らされる昨今、黒字を持続するのは言うほど簡単ではない。何度か予算を編成する段階で、「どうやりくりしても、今年度の赤字は避けられない」として赤字予算を組んだことがある。その都度能村さんは、「今年は仕方ありませんな」と事務局原案を承諾してくれるのだが、それから数ヵ月もすると、その言葉を忘れてか、「折目さん、1円といえど赤字はいけませんな」とくる。
 仕方なく、ギリギリの努力で、決算では若干なりとも黒字を計上する。不思議に何とかなるのである。何回かそれを繰り返すうちに、経営者としての能村さんのお考えが理解できるようになった。ことの始まる前から、「今年はだめです」と判断するのは、その時点ですでに敗北主義に陥っているわけで、最後の最後まで工夫し、努力する。それがゼロから出発した創業経営者、能村さんの真骨頂なのだ。


(2002SSコレクション 古川雲雪さんと20471120の作品)

 第2は"朝令暮改"何するものぞ、の精神だった。実は事務局として最も困るのがこれなのだ。事務局としては、正式に決定された方針に基づき突っ走っている。これはデザイナーのコシノヒロコさんにも共通していることなのだが、一度決めたとはいえ、さらによいアイデアが出れば、よりよいものを作るための鉄則であり、事業のためには決してマイナスにならない、と言う考えである。しかし、民間主導のプロジェクトチームとは言え、開催委員会は大阪府・市はじめ大商などの公的機関がメンバーに加わっている。 "朝令暮改"を何よりも忌み嫌う人たちである。間に立って苦労するのは我々事務局で、何度か、計画の変更をお役所に申し入れ、強引に了承を求めたことがある。だがおおむね、結果オーライでことが収まる。時に社内の問題で、"朝令暮改"を恐れるな、恥じるなと号令をかける私だが、その都度部下が苦労するのだろう、と苦笑する。

 第3は任せきる勇気である。先に記したように、黒字・黒字とうるさく言われ、また時に思い付きアイデアを持ち出されて困惑するときもあるが、基本的には任せきり、が能村さんのスタンスである。また軌道に乗った最近ではそのケースがほとんどなくなったが、折衝ごとでも、こちらの描いた戦略にすべて乗っかり、動いてくれる。こうなると、任せられた私にも、責任感と信頼に応えようとの思いが強まる。少人数だが、本業で部下を抱える私には、ここにこそ人を使い、育てる妙味のあることを実感したものである。
(文中の敬称はいずれも当時)
『千里眼』No.79(2002年9月25日)掲載

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