【第15回】
《第4章 大阪コレクションを支えた人たち−続》

■コシノヒロコさんのこと
 「大阪コレクション」の主役は何と言ってもファッションデザイナーたちである。ステージ上で、あるいはテレビや新聞、雑誌で脚光を浴びるのはこの人たちであり、佐治敬三さん(サントリー元会長)といえど、また能村龍太郎さん(太陽工業会長)といえど、一支援者であり、もとよりわれわれスタッフは舞台裏を支える黒子に過ぎない。だが少なくとも私は、その立場に十分心意気を感じていた。かつてデザイナーチームのリーダーであるコシノヒロコさんが語った一言に同感し、理解もしたからだ。


(イラスト: Yurie Okada, ROGO Ltd.)

 「大阪の行政と財界が一所懸命に"国際都市おおさか"作りに取り組んでいるのはとても大切なことだが、しかし私たちの視点で言えば、クリエーターが住まない都市なんて国際都市とは言えないと思う。いま大阪から、どんどんクリエーターが逃げ出している。この状況に歯止めをかけ、クリエーターが好んで住む大阪にすることが"国際都市おおさか"作りの第一歩になると思う。そのためにも、大阪コレクションから若いファッションクリエーターをどんどん送り出したい」。
 このコシノさんの大阪論に少なくとも私は共鳴したし、納得した。それが今日までの16年間、私なりに大阪コレクションに関わってきた原点である。

 そのコシノさんも、やはり大阪脱出を真剣に考えていた時期があった。その時期がちょうど私との出会いに重なっていた。私が、当時心斎橋にあったコシノさんのオフィスに取材に伺ったのは昭和55年6月、『関西ジャーナル』の創刊直後だった。取材内容は創刊第4号の「クリエーター群像」に収録しているが、そこには綿々と大阪を愛し、大阪を信じ、大阪で生き抜こうとするコシノさんの心情が語られている。だがその一方で、「仲間のクリエーターたちが、一人、またひとりと東京に拠点を移している。大阪に残っていては伸びきれないのではないか」の不安を抱き続けていたのだという。


(コシノ3姉妹ショーの案内状)

 もちろん、後々になってからの回顧談だが、そんな心の不安を一掃したのが、昭和57(1982)年11月の『御堂筋フェア'82』における「コシノ3姉妹ジョイントファッションショー」の開催だった。その経緯はすでに「序章・御堂筋フェア'82」に詳しく触れた。その時、ビジネス的にはファッションとは無縁の佐治さんや能村さんをリーダーとする大阪パワーの爆発に、コシノさんは感動、大阪を信じる気持を再確認し、やはり大阪にとどまり、大阪でがんばろうと決意したのだという。

 その5年後、この『御堂筋フェア'82』を序章に大阪コレクションがスタートするのだが、コシノさんがそこで果たした役割はこれまでにも随分紹介した。もし、心の不安に揺れていた頃、仮にコシノさんが東京転出を選択していれば、大阪コレクション構想も生まれなかっただろうし、われわれに対する協力要請もなかっただろう。
 また、こうした実績が、持ち前の優れた経営センスと一体となり、文字通りわが国のトップデザイナーに君臨、世界で活躍する原点になっているのではないかと、秘かに私は思っているのだが…。


(新人ステージからは、次々と有望な若手が)

■個性あふれるデザイナーたち
 先にも触れたが、関西の財界記者を任じる私は、ファッションとは全く無縁の世界に生き、コシノさんが3姉妹の長女であることさえ知らずに取材に赴いたファッション音痴であった。だが弁解すると、当時の関西財界のファッション界への認識度、理解度はその程度で、私だけが無知というわけでもなかった。だからこそあの『御堂筋フェア'82』でのコシノ3姉妹ジョイントショーが、「大阪発の本格的ファッションショー」として大きな話題を呼んだのだ。
 そんな私が何の因果か、突然にファッション界の人たちと関わることになるのだが、当初はカルチャーショックの連続だった。第1回「大阪コレクション」が開催されたのは昭和62(1987)年11月、コシノさんをリーダーに6名のデザイナーが厳しい審査を通り抜け出品した。繁田勇、平戸鉄信、古川雲雪、山中緑、そして東京から特別参加の細川伸の各デザイナーである。細川氏以外は大阪を拠点とする人たちばかりだったが、恥ずかしい話、その誰をも私は知らず、初めて接触する異分野の人たちだった。

 繁田勇さんの風貌は、いかにも世界の喜劇王チャップリン。どうやら本人もそれを意識しているようで、チョビ髭をたくわえ、雰囲気も何故か似ている。自ら「紳士服の職人」というように、デザインだけでなく、採寸から仕上げまで、すべての作業をこなす苦労人。大阪のメンズファッション界のリーダーであり、自らも出品するとともに、仲間のメンズデザイナーをまとめ、レディス優勢の大阪コレクションで、大阪のメンズファッションの存在をアピールし続けた。


(2004SS 新人ジョイント)

 平戸鉄信さんはパリのファッション学校で学び、首席で卒業した本場仕込みのデザイナーだった。あるアパレルメーカーの企業内デザイナーで、性格も穏和。その作品は、私のような素人をも「きれい」と感嘆させる。色彩、そして何よりも、女性の体のラインを優しく活かすデザインは本当に美しく、さすがに本場仕込みを思わせた。小柄で、口数も少なく、当初は目立たぬ存在だったが、どうして、いざショー演出に関してはうるさ型で、なんのかんの言いながら結局は自分のペースに引き込んでいくしたたかさも持ち合わせ、徐々に存在感を高めていった。
 最もインパクトの強かったのは古川雲雪さんだった。同じ年齢だけに今も同級生意識でお付き合い願っているが、まずその風貌に仰天する。頭髪は伸ばし放題、散髪どころか、櫛さえも入れたことはない。きっちり結んだその先端は地面に届こうかという程の長さ。ギネスに登録申請したそうだが、生理的に髪は女性の方が伸びるらしく、日本人女性に及ばず、それでも「男では世界一の長髪」とうそぶく。若かりし20代、当時、社会現象にもなった"ヒッピー生活"を体験する自然主義者で、"環境ファッション"と称してペットボトルのリサイクル繊維を使ったファッション作品を発表するなど、独特なクリエーター活動を展開している。


(2004SS ヨーロピアンジョイント)

 山中緑さんのデビューは30歳、当時はその若さが評判になった。現在は、専門学校卒業後すぐに独立する20代前半の若手が珍しくなく、30代に乗ればもう中堅の位置づけだが、大阪コレクションの発足当時はそんなものであった。少なくとも大阪コレクションが、デザイナー層の若返りを促進する一翼は担っているのだろう。その山中さんは昨年、志半ばで早逝されたのは残念だった。
 この第1回大阪コレクションのメンバーで、普通の感性で何とか付き合いが出来たのは山中さんひとり。われわれと大きな年齢差があり、逆に山中さんがわれわれに合わせてくれていたのだろう。他のデザイナーは同世代かやや年上、風貌ばかりか、感性も考え方も距離があり、相互に理解するまでには何回かのトラブルを体験しなければならなかった。しかし異星人のような彼らと付き合うことは非常に面白く、大阪コレクションに関わって醍醐味を徐々に味わうことになる。私が、財界記者の道のみを辿っていたならば、決して体験できなかったことであり、彼らに心底感謝するところである。

 その後、第2回から菅井英子、山路俊美、第5回からいづみみちこ、阿部コオイチ、市原光好、安井武らの各デザイナーが加わり、大コレデザイナー陣の層は厚みを加える。特にいづみみちこさんは第5回以降、毎年連続出品、コシノさんとともに大阪コレクションを支える中心メンバーになっている。またコシノヒロコさんの母親、大ベテラン小篠綾子さんと、その対極にある若手デザイナーとの交流も楽しく、財産の一つになった。


(2004SSコシノヒロコさんのフィナーレ)

(文中の敬称はいずれも当時)
『千里眼』No.80(2002年12月25日)掲載

折目允亮氏の一周忌によせて

 この物語の著者 折目允亮氏の「一周忌」にあたる本日(2004年2月5日)、奇しくも、最終回を掲載させていただくことになりました。長い間ご愛読を賜り、また、毎回多くのご感想をお寄せいただき、誠にありがとうございました。このあと、物語がどのように展開し、どんな結末を迎えることになっていたのかは、ご想像いただくしかありません。

 18年目を迎える「大阪コレクション」は、文中にもありましたように常に光の部分と陰の部分を抱えながらも、皆さまのご支援・ご協力によって今日まで継続してまいりました。そして今、大きな転換期を迎えています。
 創設メンバーの一人として、数々の問題を乗り越えながら同事業を継続・発展させ、また、大阪コレクション、ひいては大阪の経済・文化の発展を切に願っていた筆者にとって、その行く末を見届けることなく、志半ばで逝ったことほど心残りなことはないでしょう。

 私は、1987年11月の第1回大阪コレクション開催当時から、筆者のもとで運営事務局の業務を担当し、創設の精神の貴さ、運営に関わる皆さまの熱意を常に肌で感じて参りました。大阪コレクションから巣立った多くの若いデザイナーの皆さん、モデル、スタッフの皆さん同様、私自身も、この事業に育てていただいた一人としての誇りを感じ、これまで見守ってくださった多くの方々に、改めて心からお礼申しあげます。

 大阪コレクションがさらに多くの実を結び、いつの日か、私の手でこの物語の「続編」を再開できることを願って…。

大阪コレクション開催委員会 運営事務局
川嶋みほ子
2004年2月5日

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