川嶋 恒男



 ひとりごと


 最近、自宅近くに棲みついた数匹の野良猫を見ていて、ふと思った。

 道の真中でのんびり昼寝をしているように見えても、その実、常に耳や鼻を動かして周囲の様子を窺っており、少しの物音や気配にも敏感に反応する。我々のような無害な人間が通りかかるだけで、すぐ逃げるような構えになったり、威嚇するような態度を見せることもある。野良猫たちは、常に臨戦体制である。ましてや、ジャングルやアフリカの草原に群で暮らすシマウマなどの弱い動物たちは、獰猛な肉食動物から身を守るため、野良猫よりもさらに周囲の様子に神経を尖らせながら毎日を送っていることだろう。

 彼らのことが、条件の悪い戦地で、必死に身を守りながら精一杯戦った自分自身の姿とだぶって見えた。そして、よくこれまで生き残って来られたものだと、自分の今日の幸運を再認識した。

 過去2回の手記で、私はフィリピンに向かう船の轟沈と、戦後の捕虜収容所における生活の概要に触れた。そして、そこから様々な想いを巡らすうち、矛盾を感じつつも職務を遂行しなければならなかった、当時の自分自身の様々な感情の動き、やるせない思いが甦ってきた。

「老人のたわごと」の域を出ない、極めて断片的なものばかりだが、失われた日々の古い記憶を少しずつ整理していくため、これまでの手記と一部重複することもお許し頂いて、記録として書き留めさせて頂きたいと思う。



 入営 ー日本軍の誇りはどこに?ー


 昭和18年2月1日、私は「輜重兵連隊」(大阪府堺市金岡)に入隊した。以降、2月20日までの20日間位で、帝国陸軍とは如何なるものかを、拳骨や平手打ちなどと共に叩き込まれた後、満州(中国東北部)にある輜重兵第287部隊に転属した。予定通り287部隊から「新兵」受領の下士官10名位が堺に来ており、その日から我々の訓練を指揮した。

 その後、我々は原隊を出発した。ガタゴトでノロノロ運転の木造客車に、貨物のように詰め込まれ、山陽線を西へ西へ…。この頃は、既に国力も随分落ちていたのか、おそらく国力以上の威勢を装っていたのだろう。私たちは只々、命令通りの行動を強いられた。列車の窓は手で上下するものであったが、ガラスのないもの、木製の目隠し(ブラインド)の何本も抜け落ちたもの、上で止まらないもの等が多く、車体は横揺れ縦揺れの度にギシギシと軋む音が耳に付く。

 神戸・岡山・尾道などに、軍用設備・施設があるらしく、線路沿いに板塀の目隠しが張り巡らせてある。折角風光明媚な瀬戸内海も、殺風景この上ない。狭い車中で同じ顔々を眺め、同じ会話で何ともやりきれない。

 車中でどんな食事や飲物を与えられたか、軍規律がどんなものだったかさえ思い出せない。ただ、あまりの粗末な扱いに、「こんな待遇で、なお“精鋭なる日本軍としての誇りを持て”と云うのか?!」とぼんやりと考えたことだけが記憶に残る。着くまでに腑抜けになってしまいそうだ。

 我々は、下関から「関釜連絡船」に乗せられた(どんな船か、大きさも思い出せない)。船はかなりの速度でジグザグ航行を繰り返し、やっと無事に釜山港へ到着。さらにそこから、日本国内と同じ様な列車で、同じ様なペースで、朝鮮半島の日本海海岸沿いをとにかく北へ北へと運ばれていった。

 何日か後「豆満江(とまんこう)」を渡って目的地・満州へ進入した。途端に窓外の景色がパッと開け、山また山から見渡す限りの平野になった。その後も、列車は何ヵ所かで止まったり動いたりを繰り返した。

 3月14日、目的地「林口」に到着、そのまま徒歩で小一時間かけて転属先に向かった。翌日からの訓練については省略するが、12月までの毎日は無我夢中で、ともかく幹部候補生の合格だけを目指していた。

 その年の12月22日、福岡県久留米市の士官学校へ出発した。往路と同じ様な航海であったが、懐かしい日本の土地で、これから暫く住むことになる久留米は何と良い所かとしみじみ感じた。以後、翌年8月に卒業するまでの約8ヵ月の「士官」としての猛訓練は、苦しいが、また楽しいものでもあった。

 19年8月10日、私は暁部隊(船舶隊)に転属し、広島県宇品港で船舶技術訓練を受けた。今思えば、これが運命の別れ道であった。9月20日、我々士官学校の同期生は、樺太・北海道・千島列島・父島・母島・南洋委任統治地諸島・東南アジア一帯にそれぞれバラバラに送られることになった。それっきり顔も見ず、消息も不明のままの者が大部分である。



 戦 地 へ


 10月20日、私の乗った船(大洋丸=大正末頃の建造で3000t)は宇品港を出帆した。
ブーゲンビリア
13隻の船団(玉船団)ではあるが、全国から寄せ集めの輸送船ばかりで、大きさはまちまち、時速5ノットと船員さんに聞かされた。

 乗船に先立って編成された私の部隊名は、極秘のためか数字で呼ばれ、正式名は覚えていない。見習い士官の私は、乗船直後に老若あわせて250人位の部下(全く顔も、名前も覚える時間もないし、そういう状況でもない)の名簿と、大洋丸の指揮関係の表、及び注意事項などが記載されたガリ版刷のプリントを持たされた。このときの軍司令部の思惑は、多分「無事に目的地に着く事ができたら、現地の部隊に収容して貰えばよい」と云う事だったのだと思う。全く無責任だとは思ったが、なにしろ分単位の行動なので、深く考えている暇はない。

 乗船直前に、埠頭に現れた暁部隊の将官(少将?)に、船団乗込みの我々の指揮官が、何と「○○少将殿に敬礼、頭、中(かしら・なか)!」と号令をかけた。将官は「閣下」の称が与えられていたので、それより位が下の佐官を呼ぶときの「殿」をうっかり使ったのには私も驚いたが、その時の指揮官の周章狼狽ぶりは何とも可笑しいやら可哀想やら……。

 我々の船団の行き先は、丸秘で未だ全くわからない。戦地に着いたらどうするか、敵さんは有力か、死ぬときは小銃か砲弾にやられるのかも知れんな、食糧はどうなるのか…等々、勝手に想像するしかなかった。我々に続いて、多くの部隊が続々と乗込んで来る。既に甲板は一杯だが、まだまだ乗るらしく、桟橋には長蛇の列が続いている。

 大洋丸は赤さびた廃船のような船で、船縁を見ると随分薄い外板なので驚いた。こんなもの1枚で大丈夫かなと不安になった。まだ広島湾内なのに、既に船体に波が当たる音がドンドンと響いてくる。

 甲板に腰を降ろし、まずに各人に配られた「救命胴衣」なるものを出してみた。粗末なものだ。雨合羽を枕ぐらいの大きさの袋にして、真綿を詰め込んだもの2つをテープで平行に繋ぎ、その間に首を出して浮くようになっている。股ぐらを受けるテープも2本あり、長さが調節できるようになっている。ただ、肝心の防水が至ってお粗末で、これでは水中に入って30分もすれば、海水に浸されてしまうような心細いものである。

 その頃の日本の国力では、ともかく軍隊は「員数」さえあればよく、質は無視されることが多かった。「員数」と云う言葉は軍隊専用語である。兵隊・指揮官・武具・馬・服装・装具・弾薬までも、とりあえず決まった数だけあれば良しとされた。我々、第1線に向かう兵士でさえ、この救命胴衣に象徴されるほど粗末な扱いを受けていた。



 船内は、ただ不安のみ


 先ほどのプリントに記載されていた注意事項は以下のようなものだった。(1)本船は船倉に爆雷を積んでいる。万一敵襲に遭い被雷した時は、轟沈の恐れがあるので、全員直ちに退船せよ。「汽笛長音を3回」がその命令だ。(2)各小隊から本部(司令塔)に常に2人、命令伝達及び食事連絡等のための当番兵を出せ(3)排尿・排便は、船腹より突出した仮設便所を使用せよ(木製の枠だけで、海水面へ直行する。不安定で枠ごと落ちそうだ)等。

 甲板は1日中、ギラギラと太陽が照り付けて日干し状態だ。乗船の数時間後には、殆ど全員口もきかなくなった。ただ、「命令、○○小隊○○本部まで!」と呼ぶ声のみ。妙に静かである。私は、これでは江戸時代の「島送りの罪人」と変わらないのではないかと自嘲的な気分になった。早くも戦意喪失である。

 汽缶(ピストン)の音だけがガタガタ、ゴトゴトと響く。神経を逆撫でするような汽笛が時々響く。「後は野となれ山となれ」…。

 250人の部下の掌握を命ぜられていたが、沢山の部隊の兵士が不規則に甲板に座っているので、どうしようもない。数時間後命令が来た。「○○小隊長は第○船倉へ」「○○小隊長は船底の馬匹の横の船倉へ」等、とんでもない命令だ。まあ、仕方がない。まずは見てこよう。私は甲板から鉄の非常梯子を降りてみた。暗くて視界がない。

 Aハッチは、船の前部にあり、船底部に降りるためのものである。船底部には馬匹と馬具を載せ、当番兵が付く。B・Cハッチは、それぞれ船の中部、後部にあり、甲板から梯子で降りると、甲板との間に幅1.5mそこそこのロの字型のスペースがあり、そこにいくつもの棚がある。それぞれの棚の高さは70〜80cm位しかない。それが我々の寝床である。これでは頭から潜り込むか、足から入るかしかない。そして手を横へも伸ばせない。

 出帆して間もなく、各船は縦横に間隔を大きく広げた。これは魚雷に襲われた時の被害を少なくするためだそうだが、全く気休めだ。10月21日夜中、船団の中で1隻が早くも攻撃を受けた。燃料を積んだ船らしく、甲板一杯に火の手が上ったまま、暫く走っていたが、轟沈した。その後、我々の船団は、只管(ひたすら)不気味な夜の航行を続けながら、未だ知らされぬ目的地へとひた走った。



 轟沈--「隊長」として


 11月6日、無事に朝を迎えて、船上は食事の配給と命令受領など、いつものように活動し始めた。だが、その頃には我々船団全部が敵潜水艦の包囲網の中にあったようで、「星マーク」の単発機が1機、旋回の後、何処かへ飛び去った。これは大変だと思った。そして魚雷の命中によって、我々全員は、突然修羅場の中に落ち込んだのである。

 ドドーンと轟く爆発音と共に、大洋丸は大きく前後左右に揺れた。厚さ9mmしかない船体はブリキ箱と同じだ。全員、狼狽えるばかり。「ボーッ、ボーッ」と退船命令の汽笛が余計に神経を逆撫でする。「班長殿!」「隊長殿!」「おーい!」「助けてぇ!」等、何とも精鋭の日本陸軍とは思えない絶叫が飛び交う。

 プリントにあったように、この船は「特攻艇」とも言うべき船に載せる爆雷を、船腹の一部に沢山積み込んでいた。それに魚雷が命中すれば自爆である。救命ボートを使おうにも、木製一人乗りのものでは、池や湖では軽快に動けても、海上、増して波の高さ10mもある洋上では、役に立つ前に壊れてしまう玩具同然だ。またしても、軍首脳部の無能さや馬鹿さ、また非現実性を見せ付けられた思いがした。

 この現実を認識した途端、やはり、小なりとも「隊長」である自分自身の立場に返った。「川嶋隊、全員ガボック(救命袋)をつけて飛び込めー!」と何度も怒鳴ったが勿論、聞こえる筈もない修羅場であった。私は、「隊長に続け!」と、まず自分が飛び込んだ。着水するまでの1秒間ぐらいに、何かが頭の中を鮮やかによぎったような気がした。多分、両親、兄弟のことだったと思う。

 飛び込んだ勢いで何mか沈んで、水面に浮き上がって見上げると、船の横腹が目の前にあった。「爆弾を満載したこの壁に吸い寄せられたら大変」と瞬間的に思い、懸命に水をかいて泳いだ。再び振り返った時は50m位は離れていた。鉄帽(ヘルメット)と小銃(兵士の持つ鉄砲)があまりに重いので海中に捨てた。靴(革の長靴)も泳ぐのに邪魔で脱ぎ捨てた。船端から次々に飛び込む兵士に促されて、どんどんと飛び込みが続く。

 国力が弱りきった中、なけなしの物資をかき集めて積み込んだ船は、玩具のように目の前で沈んでいった。馬たちはどんな様子だっただろう。暗い船底でただただ恐怖にいななきながら、ブクブクと沈んでいったのであろう。船に載せられた意味がわからないだけ、言葉が話せないだけ、人間よりはるかに哀れである。

 それから太平洋を漂流すること36時間、救助され、マニラ市にあった総司令部で再編成を受けるまでの経過は、以前の手記に記載の通りである。



  “千早陣地”の構築

 マニラで再編成を受けた我々部隊の最終地点は、ルソン島東北端の小部落「パトリナオ」であった。勿論、村民達は既に全く居らず、残された高床式のニッパ屋根(大きな団扇のような形をした、長さ50〜60cm位あるニッパ椰子の葉で葺いた屋根)の小屋は、住むには良いようだ。


 でも、米軍の飛行機が常に上空を飛び廻っていた。我々は渓谷から流れ出ている小川を辿って、山中のジャングルに身を潜めた。そして、渓谷沿いに小路(こみち)を開いた、と云うより、次々と樹木の幹に「削り跡」をつけて、目印とした。

 司令官の本部、司令部部員、警備隊等5ヵ所に分かれて各々手作りの小屋を作った。周りの樹木、葉などを利用し、ツタで作ったロープで組み立てる、至ってお粗末なものである。然も、上空を飛ぶ飛行機からは見えないように樹木の下に適当な距離をおいて建てた小屋は六畳間位の大きさで、各4〜5名が車座になって座れる程度のものだ。床は細い若木の丸太を並べ、屋根と同じように小枝や椰子の葉などを敷き詰めたもの。簡単にいえば「鳥の巣」の中にいる雛鳥だ。

 悪名高い「マラリア蚊」が一杯いるが、まず雨に濡れないだけでも贅沢は云えない。蚊は防ぎようがない。誰もが「枯葉でも燃やして煙でいぶり出せばよい」と考えるだろうが、実はそうはいかない。その煙が密林の上に浮かび出て、夜明けとともに敵偵察機の目標になるのだ。一度見つかると、その渓谷は徹底的に機銃掃射や小爆弾で執拗にやられる。密林の煙は朝凪の多い彼の地では要々注意だった。実際、我々は長行軍の間に、うっかり夜中に火を炊いたばかりに、夜明けすぐに恐ろしい経験をしていた。

 我々の陣地は、司令官によって“千早陣地”と名づけられた。

 この命名は、楠正成の居城(1294〜1336)に由来する。楠正成は、南北朝時代、後醍醐天皇を奉じ、時の逆賊北条高時の討伐に成功、所謂「建武中興」となり、河内・和泉・摂津の守護に任ぜられた豪族であった。そして、河内の国・千早村に山嶽を利用した「難攻不落」の陣地と城を築いた。(一寸変わった構造であるとの事)。後、足利尊氏の討伐を命ぜられ、一旦は敵を九州まで追い落としたが、折り返し東上してきた足利軍と兵庫村(神戸市)湊川で合戦。善戦していたが背後からも細川軍に攻撃を受けた。戦利あらず遂に湊川で戦死(湊川神社は、今も忠臣として祀られている)。

 司令官は、この陣地も「難攻不落」を実現したいと考えた。特に苦労したのは、小屋の配置であった。背後は急斜面であり、ひとつの小屋が、隣の小屋と継続的に視界が届くように配置していかなければならない。この千早陣地で、我々は敵から姿を隠し、煙も立てられない苦しい日々を過ごさなければならなかった。


 蚊を防ぐ唯一の方法


 頭から軍服を、前後を逆にしてかぶる。手先は服の袖口から逆に突っ込む。足は靴を履きゲートルを巻いたままでよい。それでも朝になると10ヵ所ほど蚊に刺された跡がある。もっと厄介で不愉快なものは山蛭であった。太さ2〜3mmの蛭が樹の上から首筋にポロポロ落ちてきて、尺取虫と同じ方法で忍び寄り、靴の紐穴、ゲートルの隙間から入ってくる。「痛い!」と気付いたときは、既に血を吸われた後だ。

 怖いものは他にもあった。食糧の調達である。副食は勿論、主食になるものもない。樹海を出て、バナナの木を根元から叩き切る(バナナの果実は全て収穫し尽くされている)。大きく皮をむいて、中の芯をかじる。胃に押し込むだけである。筋の硬い大根のような味と歯ごたえである。只、その作業中は上空を一人が監視しなければならない。

 引き上げるときは、その後を残ったバナナの木で隠す。密林も足跡を残さぬよう、わざわざバラバラになって左右に大きく回ったり、なるべく石の上を歩くようにした。


 塩のない生活


 塩のない生活は、空腹よりももっともっと辛い。暑くても汗が出ない。ねっとりした汗が浮く程度である。眠っていても苦しい夢を見るばかり。昼間も頭が働かない。

 敵と戦うどころではない。塩のないのは敵よりも手ごわい条件だ。しかし、この苦しみはわずかの期間であった。部落の床下の地中に殆ど埋め込んだ壺を探しあてた。漁で得た魚、烏賊等を保存食の塩辛にしたものだった。

 命の綱ともいえる塩を手に入れた我々は、気力、体力共に大いに好転した。バナナの幹も、椰子の木の芯もこの塩で美味しく食べられた。大きな椰子の木を切り倒して、先端の皮を厚く剥ぐと、大きな大根ぐらいの部分が食用になるのだ。パパイヤの未成熟の実(早い者勝ちなので熟すのを待てない)も塩で揉むだけで胡瓜の浅漬に早変わり。また、渓谷に僅かに生息する小魚や小蝦などを、生のまま塩漬けで食べたこともあった。生のまま食べるのは、勿論、煙を立てられないからである。

 幸いなことに、我々は日本人の主食であるお米を得ることができた。常夏で雨も多いため、現地人の米作りは、適当に籾を播いて、適当に穂だけを収穫して、後は放置するというやり方なので大いに助かった。「稲穂を干す・籾をこき落とす・搗いて米にする」という作業は農家出身者の担当。飯を炊くのは大変だったが、食わんがための努力。密林の端の方で、火と煙に細心の注意を払いつつ炊いてくれた。器用な兵たちの腕が頼りだ。

 今思うと、何かを見つけるたびに「これは食えるかな?」と考えていたようだ。食料としては大抵の物は口に入れた。体長50cm位のトカゲ(のような生き物)も立派な蛋白源として我々の餓えを何とか凌いでくれたが、猫だけはどうしようもなかった。炊いてみると石鹸のような大きな泡がぶつぶつと出て、何とも胸の悪くなる匂いを発散する。いくら空腹でもこれだけは誰も手を出さなかった。

 嬉しいこともあった。野生化したらしい鶏が、不器用ながら樹間を飛んできたので捕獲したという。また数km離れた海岸の部落に、漁民として住み着いている少数の日本人がいたので、そこで兵が手に入れてきた鯖や鰹等も我々の命を繋いでくれた。特に、塩飯に魚の細切れを混ぜた飯は、病気に罹った兵の何人かを救ってくれた。



 マラリアの恐怖


 兵たちの大部分がマラリアに罹って体力を消耗し、動ける者は半分にも満たなくなった。マラリアは熱帯の熱病の一つで、厄介な病気だ。特効薬は「キニーネ」だけである。マラリアには(1)3日熱:3日目に急に震えと悪寒。40℃ほどの熱が出て、暑い日中でも体を誰かに押さえつけて貰わねばならぬほどの激しい震えが来る、(2)4日熱:同様の症状が4日目に出る、(3)熱帯熱:熱が5、6日だらだらと上下する、というものがある。

 また、デング熱もよく似た症状が出るが、意識が朦朧とするのが特徴で、特効薬はない。

 現地では、勿論薬品は皆無なので、「安静にして自力で治す」以外に途はない。従って、衰弱した者は、そのまま死を迎えるだけで手の施しようがない。ウンウン唸っていた兵隊が夜明けには死んでいることもあった。我々は「すまんなぁ。だが、本当にご苦労さんでした」と両手を合わせて冥福を祈るだけ、明日は我が身かも知れないのだ。

 死体を葬るにも、体力も道具もないため、樹海の中にかろうじて体が入る程度の穴を掘るのが精一杯である。やっとの思いで埋葬して、翌日見に行くと、死体の腕が土の中からニョッキリ突き出ていたこともあった。鼻や口、目など、体の穴という穴から熱帯の大きな蟻が行列を作っていたり、蛆虫がわいていた。悲惨の極みで、これ以上は書けない。


 敵を欺く


 偵察らしい敵機が、数日に1度やって来る。その時には隊長の命令で、夕暮れ時、数人の部下と共に2、3km離れた渓谷に入り、景気よく焚き火をし煙を出しておく。翌朝が楽しみだ。すると思った通り、2、3機の戦闘機が爆音凄まじく、的外れな渓谷に機銃射撃を繰り返した。それを我々は遠くから大笑いする。ヤケ笑いであったかもしれないが。

 我々が現地に到着して布陣するより半年も前、内地から何とか無事に着いた部隊が、陸送の方法がなく残していったらしい「15榴砲弾」(直径15cmの砲弾)を発見。これを利用できないものか。

 砲弾から信管(爆発を起こす先端部)を抜いて、地面に上向きに立てる。2本の木の枝を直角に組んでその横に立て、先端から手榴弾を信管の真上に来るように吊るす。手が滑ったら自爆だ。おっかなびっくりの作業である。そして、植物の蔓を数本、その足元に張っておくと、何かが蔓に引っ掛かったら爆発だ。これは敵が近付いた時に身を守るための手段でもあり、常に緊張していなければならない我々にとって、罠を仕掛けるという一種の遊びのような気持もあった。果たして、ドドドカーンという爆音。作戦成功に爽快な気分を味わったが、1人の兵が見に行くと、可愛そうなことに野生化した水牛が倒れていたらしい。


 窮すれば通ず


 我々が2度に亘って送り込んだ斬り込み隊の勇戦奮闘によってか、
フィリピンの花 サンパギータ
敵は遠くから監視を続けるよ うな状態が続いていた。窮すれば通ずと云うのだろうか、密林 の生活も中々“乙”な(“丙”かも知れない)ものだと思う心の余裕も出て来た。

 小屋の雨漏りは簡単に修理できる。食料も辛うじて命を繋ぐ程度には足りる。ジャングルを出ることもできず、それでも部隊の統制だけは取れていた。そして、行動を起こす以外のときは郷里の話や、美味しい食べ物の説明、彼女の惚気話をする者もいた。病人を看病し励ましつつ、意外に緊張もなく比較的明るい日々だった。だが夜が来ると、特に雨の日などは全く何も見えないので、万事手探り状態になる。

 我々の「千早陣地」は後にも先にも一度だけ、絶大な威力を発揮したことがある。“築城”後まもなく、数十名位の米兵が火砲と共に攻撃してきたが、陣地に着いた我々は、眼前に迫った敵に、三方から一斉射撃で反撃した。戦死者数名。それ以後は警邏隊がジープで走りながら威嚇射撃をした位で、決して陣地に近付いて来なかったことが幸いだった。

 この陣地前の戦闘だけは、士官学校で習った方法に殆どぴったりであり、また「小よく大に勝つ」のお手本のようなものだったと自認している。



川嶋 恒男 軍歴へ

閉じる