川嶋恒男「戦争体験シリーズ」
読者からのメッセージ
【T.K.様 平成14年1月】
 薄っぺらな戦記ではなく、実体験の持つその迫力に圧倒されました。もう2度と、あんな戦争はイヤだ、子供や孫達には、絶対戦争のない平和な世界をという川嶋さんの、血を吐くような叫びが聞こえてきそうです。
 戦争体験を語り継いでいく人がだんだん少なくなりました。前線の経験が無く、デスクで指揮した旧軍隊の上層部の書いた戦記は、戦争を美化し、懐かしがっている感じがしないでもありません。為にするために書かれたそんな戦記は、ご免被りたい。本当の戦争の悲惨さを、若い人に伝え、もし日本が、そういう道に引き込まれそうになったら、勇気を持って、それを阻止する人が育って欲しいと、心から思います。
 当時私は、俗に言う銃後の青少年で、兵隊さんのそんな情報も与えられず、「兵隊さんよ有り難う」「皇国不滅」などを叫ぶ愛国少年でした。北朝鮮などのニュースを見ていると、当時の日本をまざまざと思い起こします。国民全体が洗脳されていました。
 もうあの道だけは、繰り返してはならない。川嶋さんの手記を読んで、改めて痛感しました。今後も戦争の語り部として、活躍されることを祈っています。
【M.T.様 平成14年1月】
 我が子を「頑張って働いて来い」と言って見送らなければならなかったご家族の気持ちはどんなものだったでしょう。戦争に行ったら「人の死」というものにイヤでも常に接していなければならない…そのときはゆっくりと悲しんだりしている時間などなかったのだと思いますが、心の中には、確実に悲しく恐ろしい「傷」となって刻まれていったんだろうと思います。ましてや、その「死」はいつ自分の身にも降りかかってきてもおかしくないことだったのですから。
 太平洋を漂流し、「諦めて、何度も水中に頭を突っ込んで死のうとしたが そのたびに父母の顔が現れて『死んではいけない。まだせねばならぬことがある』と呼びかけ、私を勇気づけてくれたようだった」…親子の絆というのは、こういうものなのか。
 そして、川嶋さんの生命力は強い!! 海に漂流しながら気を失っても、丸太だけは離さずに駆逐艦に発見されて助かった川嶋さん。でも、やっと救助されてもまた戦地で戦わなければならない日々が続いていく…これでもか、これでもか、と「死」と直面しなければならない。その上、マラリア、デング熱、栄養失調の恐怖。そんな中でやっと終戦を知り陣地を離れて武器を棄てても、その先にまっていたのは「米軍の捕虜」「戦争犯罪人」。
 平和の中に戻って生活している方々が再び戦地に赴いて「必ず日本に連れて帰るぞ」という想いを胸に遺骨収集に来られた時は、ずっとその地に留まっていらした方々はどんなにかうれしかったでしょう。戦争は生きている人間と亡くなられた方々を、そうやって強い絆で結びつけておく程の壮絶な体験だったのですね。
 この文章を1人でもたくさんの人が読んで、戦争がどれ程多くの不幸を作り出すものなのか知ってほしいと思いました。私自身も、読ませてもらって改めて、戦争がこれ程の悲惨なものだったということを胸に刻むことができました。
【T.M.様 平成14年2月】
 命は何よりも大切なもの。どんな命もすべて同じ重さ。だけど、戦争の中では、たくさんの命がどんどんと失われていきます。そんなの違うんだ、間違ってるんだ、っていう川嶋さんの強い思いが、痛いくらい伝わってきました。実体験をした川嶋さんだからこその手記、胸にしみました。
 命の大切さを教える立場にあるひとりとして、貴重な手記にめぐりあい、感謝しています。私は実体験としての戦争を知らないけれど、この「二度と再び悲惨な戦争を繰り返さない」の思いをしっかりと子供達に伝えていきたいと思います。
【L.E.様 平成14年2月】
 私は昭和21年生まれで、久留米の出身です。父は海軍でした。アルバムには坊主頭の兵士の写真があります。父は川嶋様より若かったせいか、川嶋様ほどのつらい経験はないようです。しかし、やはりあまり戦争の 話はいたしません。最近、時折「戦争は…」と話し、「あんなものはするものではない」と話すようになりました。
父が戦死することなく、その後結婚したので私も生まれたわけで、戦争の話を知ることは、私にとってもとても大切なことだと思っています。
冒頭、「自ら戦争を体験した私にとって、その勝敗にかかわらず、戦争が如何に悲惨なものであったかということ」「お国のため、君のために生命を惜しまず戦うことが男子の本懐だ」と叩き込まれ、戦場にかりだされた私」などは、当時ほとんどの方がそのような状況で、無謀な命令で文章にできないほどのつらい体験をなさったとおもいます。
 当時は強いアメリカなどの国々に対し、ただ精神論のみで向かっていき、多くの人がつらい目にあって死んでいったと聞きます。正しい情報などなく、軍の上層部の命令によって死ぬと分かった戦いを強いられたのでしょう。
 「人間同志が全力を出して殺し合うということほど馬鹿げて残酷な、悲惨なことがあるでしょうか。どんな事情があるにせよ、戦争は絶対避けねばなりません。強い軍事力も必要でしょうが、外交による調和を最優先すべきです。万一、再び戦争が起これば、今度は瞬時に国も国民も滅んでしまうでしょう」これは川嶋さまが、つらい経験を通して、これからの日本に伝えられる、絞り出すような訴えだと思います。
 本当の戦争、最前線での体験をしてこられた方のお話は貴重なものです。現在の日本も、戦前の日本の状況となにやら似てきたという声もあります。私たちは戦争がどういうものかを知り、また正しい情報を得るように努力し、そして自分の意志に反して戦争に巻きこまれたりすることのないようにしていかなければいけないと思っています。
【I.N.様 平成14年3月】
 短く淡々と書かれていることが、かえって計り知れない戦争の恐怖と狂気を越えてこられた川嶋様の無言の魂を感じさせられます。現地で遺骨探しをしている写真は、なにかの記念写真のようですが、深い深い…さまよっている戦友の魂を助けに行かれたのでしょうか。戦争を体験した人の深い悲しみを知らず、ボケてしまった私たち。私たちは、川嶋様たちの唯一の願い「戦争のない世界」にしていくことを絶対忘れてはいけませんね。
 ひさびさに魂の読み物を読ませていただきました。そのような世代の親に育てられた私たちが、これから頑張らなければならないと思いました。
【R.C.様 平成14年5月】
 敗戦後半世紀を越えても、夏が来れば必ず立ち止まる日があります。60歳半ばの両親は当時小学校にあがったかどうかでしたので、私の耳に戦地での体験談が直接入ることはありませんでした。毎年お盆に親戚が集まり、大人たちの間で昔の苦労話が始まっても、戦争そのものに触れることは意図的かどうか、されなかったように思います。米の飯が食べられなかった、着る物には大体 接ぎが当たっていた、今の子供は幸せだぞというオチです。ですが、子供心に戦争は怖い、亡くなった大勢の人は可哀相と思う気持ちは育っていた気がします。
 先日、広島平和祈念公園のモニュメントが悪戯されました。単なる悪ふざけにしては悪質。自分のしたことがどんな意味をもつのか自覚があるのか、と疑うような事件でした。そしてまた、NYでのテロは誰にとっても衝撃的でした。全世界を動かしたあの事件の場所が、家族を探す張り紙や遺族を慰める寄書きで溢れている映像が流れましたが、その中に日本語で書かれた一つのメッセージに目を疑いました。
 『今日は楽しかったです』。見た人がみんなこれを読めるわけではないけれど、心無い一言に怒りを覚えましたし、日本人として情けなくも思いました。平和を当たり前に生きていると、人の悲しみを推し量る心も鈍ってしまうのか? 今の私たちにとって戦争は他人事なのか?と自分でも振り返るきっかけとなりました。
 諸外国に対する配慮からか、終戦記念日に行われる行事そのものからは生々しい戦争の気配は感じられません。子供たちがテレビニュースでこれを見ても教えられなければ特に自分たちと関係ないと過ぎて行ってしまうかもしれません。戦争体験の壮絶さは大人でも受け止めきれるか、という緊張感もあり、そのまま子供たちに伝えるには抵抗がありますが、「戦争で受けた痛ましい過去の傷」は今でもまだ消えていないという事実は伝えるべきだと思います。
【K.N.様 平成14年7月】
 幸いにも、私の父も生きて元気で母のもとへ帰れました。そして生まれたばかりの我が子を抱くことができました。生きていればこそ、この私も生を受けることが叶いました。
 「藍より蒼き 大空に大空に 忽ち開く 百千の 真白き薔薇の 花模様
見よ落下傘 空に降り 見よ落下傘 空を征く 見よ落下傘 空を征く」
戦争という命を弄ぶ不条理な場にありながら「空の神兵」と言う父から教わったこの歌は なぜか明るいリズムを刻む。それが今は悲しく響きます。
 生きることの大切さを学ぶ前の幼い子等に与えた苦であり、親の為家族の為に生きることを切に願いたい人々に与えた苦。人が人を殺めることの愚かさを知らないまま戦地に向かう、その愚かさに気づいていながらお国の為と陸海空へと向かう。その愚かさを気づかせない為の背中を押す為のメロディ…。
 父は、私が23歳の時に亡くなりましたので、戦争の体験話を聞いたのはほんとに幼い頃で、その全てを覚えてはおりませんが、川嶋様の綴られた記録と同じようなことであったろうと思います。でも、私が覚えているのは、生きて帰れたことへの喜びだけ、繰り返し繰り返し笑みを浮かべて語る父の姿です。ですから、川嶋様の壮絶な命との心との戦いの全記録は、ただ文字を追うだけでは申し訳ないような思いにかられます。
 戦争経験を持たない私が、感想などとは不遜なことだと思いますが、この手記を読むことによって感じたこと、人が人を殺めることの罪を心の中に留め置き、読み伝え聞かせることで次世代へ伝へて欲しい、そういうメッセージなのだろうと思います。余りにも豊かで平和な時代にあって、忘れがちになる過去の姿…時々、後ろも振り返ってみなければと思いました。
【T.H.様 平成14年8月】
 今年も日本国民として8月6日、9日、そして15日、絶対に忘れてはならぬ日。
「フィリピン捕虜収容所にて」を拝読致しました。生きて行く不安より先に「生きている不安」も感じられたのではないでしょうか。生きた証として、日々の出来事、刹那々々の思い、仲間たちと交わした楽しい会話を書き留める『思ひつき』は、生き抜く為の灯火になり、希望への窓口になっていったのでしょうね。おそらく、書き記す事の出来ない、言葉にもならない、厳しい軍隊生活、そして捕虜収容所での試練も有った事と思います。 この年代の皆様方は戦争を体験され、戦後は日本復興の為、再び「企業戦士」として2度も戦い抜き、現在の日本を築き上げたと言えるでしょうね。
 「靖国神社」参拝の事などを問題にしている人たちは、実際に参戦しなければならなかった方々の悲惨さを分かって反対しているのでしょうかと思うときがあります。まもなく忘れてはならない日がまいります、
 川嶋恒男様、貴重な体験記をありがとうございます。いつまでもお元気で過ごされ、私たちの知らない体験を教えてくださいませ。
【Y.W.様 平成14年8月】
 数年前、広島の原爆慰霊碑前で、修学旅行の女子高校生に出会った時の体験です。おそらく慰霊碑に安らかに眠れとお参りの後でしょうか、私は、カメラのシャッターを押してと頼まれ、ファインダーを覗きました。すると、ファインダーには数名の女子高校生が、ピースよろしく指を2本立てたのが見えました、
 一瞬シャッターを切る指が止まり、場所を考えろ〜って怒鳴りたくなり、カメラを返して場所を離れた事がありました。口先だけの平和の有難さしか知らないのでしょうか、それとも私が広島県人だからこんな気持ちになったのでしょうか…。
【M.K.様 平成14年8月】
  川嶋さんの戦争体験シリーズを拝見し、歴史の宝庫にたどりついたような気がしました。よくある戦争回顧談のような一番訴えたかった「死と直面」した部分は、ひそかに書き綴った手作りの冊子の写真1枚に任せ、他の「おもひで」でまとめられていることに深い配慮を感じます。必要な措置は致し方ないとしても「戦争」につながる法律に対しては防衛という名の侵略、国民の基本的人権を侵すおそれも多い、という意味で、政治家任せで安易に容認、荷担してはならないと思いました。今後も貴重な歴史を風化させないよう、ぜひご活躍頂きたく思います。
【D.Z.様 平成14年12月】
 「千早陣地の構築」を拝読させて頂きました。昭和18年「輜重兵連隊」に入隊されて訓練の後、満州「輜重兵第287部隊」に転属され、士官学校に入学、士官学校同期生も各地のpに配属され、筆者は暁部隊に(暁部隊の話は、父も関係していましたので色々と聞きました)。爆雷を船腹に孕んだ輸送船で戦線に向かい、船は転覆。
 ルソン島東北端の小部落「パトリナオ」では食糧難、マラリア、塩のない生活とも戦い、拝読させて頂きながらも私達には想像も出来ない戦いだったでしょうね。読み終わり、最初に筆者が書き記していらっしゃる事が実感だと感じます。
 「必死に身を守りながら精一杯戦った自分自身の姿とだぶって見えた。そして、よくこれまで生き残って来られたものだと、自分の今日の幸運を再認識した」…
 戦争を映画やテレビ、小説でしか知らない私達には、筆者のご苦労された一部も解らないでしょうね。本当に素晴らしい手記を有難うございました。
【Y.T.様 平成16年2月】
  川嶋さんのお父様の戦争のお話に、涙しました。経験を語られ、おそらく戦争から戻られた方にはよくある体験なのかも知れないけど、あなたのお父様の体験と思うと、身震いし、そして生き延び、お元気で今、ちゃんと書き残されていることに、なんともいえない衝撃を受けました。
 そして、当たり前のことかも知れないけれど、人間同士が殺しあうことがどんなことなのかを心から訴えられていることが、私に染み入りました。思いやりと愛情を持つという人間として当たり前のことが、出来難くなっているこの狂った世の中に、私たちはおとなとして生きていて、何をしていかなければならないのでしょう。
 本当に深刻な問題に私たちはがんじがらめにされています。勇気を持って、笑顔で生きていくために、そして次の世代がそうできるよう、がんばりましょうね。
【A.G.様 平成15年9月】
 日常生活の色々な場面で思い出される当時の記憶を、労を厭わず文字に残しておかれた努力の賜物が、作品の流れに幻想的なうねりをもたらしていると思います。
 読み初めをふいに襲うインパクト〜平和な森に棲む「脚長バッタ」が突然、獰猛な大蟷螂(オオカマキリ)に変身してしまい、戦いの嵐の中に放り出されるストーリー〜は、戦争を実際には知らない我々の世代の者に対しても、こうした別のアナロジーを通じて、全ての人間に共通する、恐怖と絶望の感覚を確実に呼び覚ましていくからです。
 「もう、あまり時間はない」…この叫びにも似た短い一文に、強烈な印象を抱く読者も多かろうと思います。ご体験を伝えて下さる際の大きな動機、として深く尊重させていただきたい部分ですが、どうか、川嶋様ご自身は今後もご自愛の上、祖国の歩みと行く末を幅広く見渡す、貴重な語り部としての、余人を以って替え難いご活動を、末永く続けられて下さいますように。私どもも、川嶋様の内側からはじけ出る、こうしたお言葉の数々を、更に学ばせていただける機会と、ありがたく受け止めさせていただきます。
【C.B.様 平成15年9月】
 「五十八年目の回想」で、川嶋さまが心から叫び、伝え残したいものが何なのか…。
 ― 風化の中で ―「無視された魂の叫び」「国敗れて後」「もう、あまり時間はないのです」を拝読しながら感じたことを申しあげたく思います。
 毎年のことながら、終戦記念日の時期になると、靖國神社参拝の是非などについて様々な意見を述べられていますが、戦場において、お国の為に戦い、傷つき、亡くなられた方々の遺族や、「礼儀・信義・質素」を旨として、国のために尽くされた御霊が、今日日本に繁栄をもたらした礎となられた事は、絶対に忘れてはならない事ですし、国のために尽くされた先陣達の気持ちが分かって、評論家や各界名士の方々が述べられているのかと、疑問を感じております。
 教育問題にしても、学校で何を勉強しているのかと考えさせられる事件も伝えられています。最高学位を学んでいる学生が、広島の平和公園に全国から平和を祈って寄せられた折鶴に放火をする事件や、中学生による殺人殺傷事件など、何かが狂っているのでしょうか…。
 殺傷事件が起きると、学校はすぐに持ち物の検査をして「ナイフを持たないように」等という指導をしているようですが、病気の治療にたとえると、「熱や吐き気、腹痛」のように、ただ、その表面的な症状だけを止めることを考え、その病の根本的な原因を考えていないように思えます。
 昔、丁稚は10歳以下からやっていたのですから、中学生の年齢ならある程度の仕事は誰でも出来るようになっているはず。形式だけ整えようとする単位のようなものでなく、昔のように、必然性があって学びたい者は自由に学び、実際に身に付く学問を受けられるようにしてはどうかと思います。
 現在、塾も予備校も進学のためのものですが、本来の教育機関として全てを認めれば、教育機関本来の役目となり、本心から、今の時代の人々がやすらぎを持って生きるにはどうしたら良いかを学べるでしょう。単なる学校とは一味も二味も違う、かつての緒方洪庵の「敵塾」や吉田松陰の「松下村塾」のようなユニークで活力ある人物を育てる事ができるのではないでしょうか。
 貴重な体験談、忘れてはならない過ちを伝える叫びの随筆をありがとうございました。
【H.O.様 平成15年10月】
 「過酷な体験記」を感慨深く拝見しました。ボクの叔父も、昭和19年秋、恐らく宇品からフィリピンに向かい、20年5月、ルソン島で戦死しています。もとより一兵卒として出征しているので、川嶋様とは立場も状況も違っていたはずですが、戦地の叔父を見る思いで読ませてもらいました。
 といっても、ボクには叔父の記憶は全くありません。ただ、当時、母と叔父の両親、2人いた姉もすでに亡く、叔父の死によって母の実家は断絶しました。「せめて立派な墓を建ててやりたい」というのが、終戦直後の母の願いであったようです。
 戦地に赴いた方々の艱難辛苦は胸を打ちますが、戦争の記憶が全くない我々の世代にも苦渋の余韻を残しています。小学校時代、ボクの周りにも父親を戦争で亡くした子供が多くいました。中には「母子家庭」と言われ、市営の仮設住宅に住んでいる家族もいました。子供たちはクズ鉄拾いをして家計を助けていました。その姉は中学を終えると呉市に行き、進駐軍兵士の愛人となって仕送りをしていました。今思えば大変失礼なことをしたと申し訳ないですが、そんな子供たちをボクらはわけも分らず「テテなし子」と呼んでバカにしていました。
彼らの多くは中学を卒業し、母親を残して大阪や北九州に泣く泣く集団就職しました。今、どうしているのか。昔のことはすっかり忘れて、案外、幸せに暮らしているのかも知れませんが…。
 鹿児島県の知覧という町に2度行ったことがあります。茶所として知られていますが、昭和20年4月の沖縄戦の陸軍特攻基地となった町です。当時の従軍記者が「知覧」という本を戦後書いています。折りしも桜花咲く4月、特攻隊員は桜の小枝を操縦室いっぱい積め込んで出撃したそうですが、上空を旋回すると桜の花びらがヒラヒラと舞い落ち、幻想的で、感動的でさえあったと記しています
 今、基地の跡地に平和記念館(特攻会館)なるのものが建てられ、観光の名所となっています。館内には隊員の遺品や遺書が展示してあり、おばさんたちが涙を流しながら読んでいましたが、ちょっと違うのではないかと思うのはボクだけではないはずです。沖縄本土に辿りつける特攻機は少なく、東シナ海上空で敵グラマンの餌食になったということです。むざむざ死に追いやられることに抗議して自爆した隊員もいたということです。それでも次々と出撃を命じる上官。一度走り出すと何が何でも止められない官僚の体質は今に始まったことではないのです。
 特攻会館の建設に奔走したのは、戦時中の陸軍航空本部長だった某中将です。「二度とあの悲劇は繰り返さない」というのがその趣旨ですが、その御仁は後に自衛隊の大幹部になりました。
 ボクが子供の頃、どこへ行っても「原爆はどうでしたか」と」聞かれたものですが、今、そんなことを言う人はいなくなりました。だけど、ボクの従兄弟(もう70を超えていますが)は原爆投下の翌日、後始末のために広島に連れて行かれ、原爆症になっています。死んだ人を思えばそれは仕方ないことかも知れないけど、その影響で、子供たちも生まれた時から常に体調が優れず、今も満足に仕事ができません。
 川嶋様の手記に感銘し、叔父と重ねて読んでいるうちに、ついつい昔を思い出しました。悪しからず。
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