【第4回】
《序章 御堂筋フェア82-続》

■まずは、やってみなはれ!
 多少の不安を抱いていた"宗教的聖域"お寺の境内を使うことについて、南御堂(東本願寺津村別院)の快諾を得たわれわれは、即座にその準備に着手した。何故なら、場所や資金計画など実施計画の決定を待たず、早々と開催時期だけは「昭和57(1982)年11月上旬」と決まっていたからだ。
 「やっていただけるなら、10月のパリ・コレクションと11月の東京でのコレクションの間でやりたい。パリに出品した作品を直接大阪に持ち込み、東京に先駆けて大阪で発表した方が話題になる。それには11月上旬しかない」
 それが出品するコシノ3姉妹(ヒロコ・ジュンコ・ミチコ)を代表したコシノヒロコさんの希望であり、事業推進者の能村龍太郎・太陽工業会長、加藤良雄・大阪21世紀協会専務理事、平木英一・サントリー常務の3人も了解していた。もっとも、事務方を押しつけられそうな私としては、準備期間が10ヵ月にも満たないことを考えると、ことの成り行きに、不安は募るばかり。「資金も含め、詳細が何も決まっていないのに大丈夫ですか。1日でも遅い方が良いのでは?」とは思うのだが、最若輩の私としては先輩たちの威勢にただただ圧倒されるばかりだった。


(イラスト: Yurie Okada, Rogo Ltd.)

 能村・コシノ両氏の出会いから丁度1ヵ月後の同年3月2日、能村・加藤・平木・コシノの4氏に事務方として私が加わり、クラブ関西で初の全体打合わせが行われ、次の3点を確認した。
 (1)当面の大阪の課題の1つである、ファッション産業振興と御堂筋のファッションストリート化のための事業とする。
 (2)昭和58(1983)年からスタートする「大阪21世紀計画」のプレイベントと位付ける。
 (3)事業推進は官庁や既存の経済団体と緊密に連携しつつも、基本は民間のわれわれ自身の責任で実施する。

 開催日まで実質8ヵ月しかなかったが、そこからのスタートダッシュは、今思っても見事だった。それもそうだろう。推進メンバーはいずれも、「まずは、やってみなはれ」の佐治敬三サントリー社長の仲間であり、ブレーンであり、実質的にはその佐治さんの全面的同意を得てのことであったのだ。

■8月、実行委員会が発足
 まず、関係する有力者への了解と協力要請が肝心である。事務的な作業と並行して要人への協力要請と批判層への口説きが始まる。なにせ、中心になって動こうとする人たちに肝心の繊維関係者が1人もいない。それどころか、この業界の一部から「繊維のことを知らない者たちが勝手なことをしている」の陰口も耳にしていた。だから、これは最も大事な作業だった。
 当時の資料によると、4月19日に大阪21世紀協会「大阪築城400年まつり委員会」の堺屋太一委員長と意見交換、翌年からスタートする大阪21世紀計画諸事業のプレイベントとすることで合意。同23日には後に「御堂筋フェア実行委員会」の筆頭代表委員になる近藤駒太郎・大阪商工会議所副会頭(繊維担当)に協力要請。5月8日、同じく代表委員に就任する大谷一二・東洋紡績会長に会い、繊維業界の理解を得たいと要請…と続く。

 繊維に無縁の人たちが、「大阪では初めての本格的なファッションショーになるだろう」といわれるショーを、南御堂の境内で繰り広げようという常識はずれの企画なのだから、会ったすべての人が、驚きと好奇心一杯の目でこの企画を受け止めてくれた。もちろんそれにはその前年の12月、次期会頭含みで大阪商工会議所副会頭に就任し、われわれを全面的に支持してくれていた佐治サントリー社長の存在も大きかった。
 こうして次々と賛同者、協力者を増やし、7月23日には「御堂筋フェア実行委員会」の発起人会、さらに8月10日の同委員会正式発足へとこぎつけ、近藤副会頭を筆頭代表委員、大谷氏、能村氏に加え、大阪のメンズアパレルのリーダーの1人であった清水貞保・メルボ紳士服社長の3氏を代表委員とするリーダー体制を整え、開催日も11月5日に正式に決定した。開催日まであと90日を切った、ぎりぎりのタイミングであった。

■「ファッショナブル御堂筋」に燃える
 一方、こうした組織作りとともに能村、平木両氏をリーダーとする事務スタッフも固めつつ、ほぼ連日のように会合を重ねていった。筆頭代表委員を務める近藤大商副会頭の関係で大阪商工会議所から深江茂樹さんが、大阪21世紀計画のプレイベントの位置付けから同協会の笹井和生さんが、サントリーからは山田研二さんが手弁当でスタッフに加わり、大阪府・市、大阪通産局からも助っ人が駆け付けてきた。瞬く間に実施部隊は膨れ上がった。また、事業のサポートチームとして広告代理店の電通とファッションショー制作会社のSUNデザイン研究所も加わる。
 その当時の御堂筋は、私の当時の口癖を許されるならば、大阪のメインストリートと賞賛されながら、「金融機関と自動車に占拠された無機質なストリート」になっており、午後3時を過ぎれば各銀行のシャッターが降ろされ、人間のにおいが全くしないストリートになっていた。そこを自動車が排気ガスをまき散らし、わがもの顔に走り去る。多くの流行歌で歌われるロマンチックな恋のストリートとはおおよそ縁遠い存在だった。



 その御堂筋とファッションがミックスしたのが関係者の共感を得たのだろうか。たちまちにして編成された運営スタッフは燃えに燃えた。全員がボランティアだったが、このイベントの必然性を全員が真剣にとらえ、のめり込んでいった。決して義務感からではない、同志的結合を一人ひとりが意識し合っていた。
 今だから書けるが、その頃、私自身も大きな悩みを抱えていた。当時、企業と総会屋との癒着関係が一般株主や社会から指弾されていた。その世論を背景に、対価価値のない広告や印刷物購読への支出を抑える商法の改正が行われ、昭和57(1982)年10月から施行されることになっていた。このためほとんどの新聞・雑誌の出版元は企業と話し合い、「前倒し」と称して、その年の9月までに翌年の広告・購読料を得るための活動を行っていた。しかし、新聞発行の通常業務と、新たに降って湧いたこのイベントの事務局業務をこなすと、そんな時間は全くなかった。事実、ある大手企業の担当者から「どうしているの? 君のところの広告料も用意しているから、早く受け取りに来なさい」といった電話をもらったが、それさえ果たせない忙しさだった。

 昭和55(1980)年6月に創刊した『関西ジャーナル』はまだまだ孵化器から這出したばかりの頃である。そのお金は喉から手が出るほど欲しかった。だが、御堂筋活性化のキャンペーンを創刊より続けてきた新聞であり、今回の企画を生み出した人たちの末席につながることを考えると、私事のためにチームから降りるわけにはいかないし、また一方では、目の前の僅かなお金より、このイベントをやり遂げることで得られる社会的信用がはるかに大きい、という生意気な計算もないでは無かった。こうして悩みを抱えた私をも抱き込んで、このイベントは走り続けたのである。

■事業費、2倍強に膨らむ
 一方、委員会側にも徐々に問題が出てくる。その1つは資金問題だった。当初、南御堂境内でのファッションショーのみであった「御堂筋フェア82」の予算総額は、一応の目安として「1500万円から2000万円」と見積もっていた。だがそうはならなかったのである。事実上の実行責任者であった能村さんの後日談である。
 「最大2000万円なら、たとえ最悪の事態になっても1000万円以下の赤字で収まるだろう。佐治さんが全面的に協力するといっておられるので、サントリーさんと私どもでそれを補えば、皆さんにご迷惑は掛けないだろう、と計算し引き受けた。だが若い人たちがどんどん事業内容を膨らませていき、正直いって心配した。何時、それ以上はだめとストップをかけるか、真剣に考えていた」
 「大阪全体を巻き込むためにはファッションショーだけでは弱い。御堂筋そのものを巻き込む内容にしないと企業や一般の人が納得しない」というスタッフの判断から、次々に事業案がプラスされ、またファッションショーの制作側からは、「3人の個性がそれぞれ違うのでモデルは共通でなく、各ステージそれぞれのモデルを選びたい。またパリコレ後に来日する世界のトップモデルも使いたい」といった注文がくる。膨れ上がる費用に不安を感じたという能村さんたち責任者の心の動揺が手にとるようにわかろうというものである。

 こうして最終的に「御堂筋フェア82」の事業計画は次のように固まった。
(1)   オープニングセレモニー 御堂筋パレード(難波神社・南御堂間)
(2) コシノ3姉妹(ヒロコ・ジュンコ・ミチコ)ジョイント・コレクション(南御堂境内特設会場)
(3) ストリート・ライブコンサート(難波神社境内)
(4) フリーマーケット(御堂筋西側の民間所有空地)
(5) ファッション・パーティ(ファッションショー会場)


 お寺の境内でのファッションショーが本邦初であれば、御堂筋パレードも、平日に車道をパレードすることは御堂筋開通以来初めてであり、フリーマーケットもライブコンサートも、御堂筋沿線で行うことはそれまでなかったことだった。だが、確実に費用は膨れ上がる。当初、最大2000万円だった予算は3000万円になり、最終的に4500万円にまで跳ね上がる。その費用をお役所や経済団体に頼らず、委員会の自己責任で集めるというのだから、最高責任者の佐治さん、能村さんの不安はわかろうというもの。しかも、それまでの事務経費のすべてと境内の空間を覆う大テントの一切の費用は能村さん(太陽工業)が、パーティに伴うあらゆる費用は佐治さん(サントリー)がその枠外で負担したのだから、おそらく6000万円規模の事業だったのだろう。

 しかし、この、日ごとに拡大する事業計画案に、能村さんは「これぐらいにした方がよろしい」と最後に断を下すまで、一言も口を挟まなかった。若いスタッフ一同が今もって感謝するところである。また資金担当の平木さんは、直接の担当者である部下の山田研二さんに「大企業から奉加帳方式で集めるのは簡単だが、それではこの事業の意味がない。少しの金を多くの企業から集めよ」の難解な指令を出していた。4500万円のほとんどの費用をこうして調達したのだが、山田さんによると「御堂筋沿線の企業のほとんどが支店・営業所を問わず協賛してくれたし、大阪に本社を置く企業からは御堂筋沿線に関係なく日参し、チケットを買ってもらった」という。その数は300社を超えていた。

■大阪の伝説イベントに
 マスコミの協力も大きかった。当日のマスコミ報道もさることながら、事前の告知報道がわれわれの期待をはるかに上回っていた。主だった報道機関のすべてが先を競うようにこのイベントを取り上げてくれた。
 例えば朝日新聞は、当時編集委員だった萩尾千里記者が早くからその動きに注目し、9月28日付『ひと』欄に、出品者を代表してコシノヒロコさんを取り上げた。
 「…イチョウ並木のきれいな御堂筋をもっと市民の楽しめる、潤いのある街にし、ここを舞台に、繊維の街の活性化をはかろうというのが御堂筋フェアのねらい」
と紹介し、コシノさんの活動を称えている。これも後日談だが、同紙の『ひと』欄でファッションデザイナーが登場したことはそれまでになく、コシノさんが初めてだった。それだけに、その人選をめぐって社内で大きな問題になったのだという。それだけファッションデザイナーの社会的ステータスが低かったということなのだろうが、その意味でもこの報道は大きな意味をもっていた。そしてその後、ライバル各社が次々に取り上げるようになり、御堂筋フェア82の事前告知は十分に行きわたった。

 それまでの大阪は、繊維の街といってもあくまでも素材生産と商品流通の街であり、ファッションに対する認識はほとんどなかった。繊維会社の経営者といってもほとんどの人はファッションショーを見たことのない人たちばかりである。そういう中で、繊維以外の関係者がボランティアチームを編成し、大阪では初めてという大々的なファッションショーを開催するというのだから、確かにインパクトは強かった。
 そして当時の岸昌大阪府知事、大島靖大阪市長ほか多くの大阪のトップリーダーが来場し、華麗な本場のショーを堪能してくれたのだった。当時、大阪市立大学教授だった現在の磯村隆文大阪市長もその一人だったが、その感動を今も時に話すことがある。そして参加してくれた一人ひとりの感動が後々に伝えられ、今、「伝説のイベント」としての評価を残すことになったのである。(文中の敬称はいずれも当時)

『千里眼』No.69(2000年3月25日)掲載

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