【第5回】
《第1章 大阪コレクションの発足》

■大フィーバー・御堂筋フェア82
 よくよく自分がナルシストだと思う。いささかはしゃぎ過ぎの感じはするが、世間の評価とは別に、このイベントに関わったすべての者が、その成果に最高の自己採点を与え、満足感に浸ったのだった。私はと言えば、自らが主宰する『関西ジャーナル』紙に次のような記事を書いている。若気の至りの感じがないではないが、上気した気持ちを抑えられずに文章が踊っている。だが、その感動と雰囲気を最も伝えていると思うので、長文だがその記事を紹介させていただく。(昭和57年11月21日付)
【新しい大阪創造へのファンファーレ】
 あの興奮はいったい何だったのだろうか。
 立錐の余地もないほどに、会場を埋め尽くした老若男女の視線が、熱っぽく、しかも一瞬の所作も見逃さないといいたげに、モデル嬢の一人ひとりに注がれる。どの顔も真剣そのもの。興奮の坩堝(るつぼ)だ。
 "本物"に出会った時にのみ知るあの感激を、誰も抑えることができなかったのか。
 熱気に包まれた1982年11月5日(金)の南御堂・特設ファッションショー会場ー。
            *   *   *   *   *
 「御堂筋がファッショナブルになる1日」のキャッチ・フレーズで開催された御堂筋フェア'82。既存の組織に頼らず、一市民の立場にたった経済人たちを中心に企画立案された今回のイベント。"民主官従"の新しい推進母体。一風変わったこのスタイル。ともすれば大阪人が忘れかけていた大阪人パワーの発露。そこにこのイベントの生命(いのち)があった。
大阪の21世紀創造に向けたパワーの爆発である。
 あいにくの雨天。人の集まりが心配だった。テント構造のファッションショー会場は大丈夫だった。しかし、6ヵ月以上も練りに練り、各方面への厳しい折衝を積み重ねてきた他のイベントはどうなるのか。
 御堂筋の西側車道を一時閉鎖するオープニング・パレードもある。難波神社の境内を使ったストリート・ライブコンサートやフリーマーケットもある。またカフェテラス、ファッション・バザールも予定している。
 雨はますます強くなる。本降りだ。
 中止…。
 関係者の不安は募る。今までの努力は、雨とともに、地中深く流されていくのか。
 だが、そんな不安を一気に拭い去ってくれたのは、午後1時の開演を前に、続々詰めかけてくれたファッションショーの観客だった。

 12時半には、早くも観客が長蛇の列を作った。当日券もどんどんさばけていく。開演10分前にはもう満席だ。だがなお入場者の列は切れない。立ち見を承知で入ってくる。第1回目からこの盛況。
 いけるー。関係者の全員がホッとする。期待感が強まる。
 3時半からの第2回目もそうだ。いや、1回目よりさらに多い。
 そして6時からの第3回目。定刻になっても入場の列が続く。仕事を終えたOLたちがぎりぎりで走り込んでくる。サラリーマンもいる。経営者も、自由業と思える人も結構混じっている。
 会場はもう、朝の通勤電車と同じ状態、立錐の余地さえない。1回分のキャパがほぼ1500人。だがトータル5000人はゆうに越える入場者だ。
 そして、満員の観客に応えたショー内容。お寺の境内で、しかもテント張りという意外性も、計算外の効果を生んだ。
 大阪商工会議所の若いファッション振興担当者も興奮気味に語る。
 「大阪の人たちはおそらく初めて本物のファッションショーを観たのではないでしょうか。これまでのものとは格が違う。専門学校の生徒たちにしても、大阪では本物に触れる機会がなかった。パリや東京でのショーをビデオで観て勉強するのが現状ですからね」

 観客の感動を肌身で受け止めたコシノヒロコさんは自らの作品を語る前に「お寺がこれほどファッショナブルだったことを初めて知った」と何度も何度も繰り返す。
 専門家の立場から大西衣料会長の大西信平さんも「テント内でのファッションショーをあらためて見直さなければならない。素晴らしい効果だ」と認識をあらたにする。
 誰の目から見てもどの方向から分析しても、このイベントが仕掛けた刺激は、予期以上であったに違いない。
 そして神戸商工会議所のファッション産業振興委員長を務める鬼塚喜八郎さん(アシックス社長)は「大阪は、いざやる気になるとこれだけのことが出来るのですな。何故、今までやらなかったのでしょう。これからどんどんやるべきです」という。

 大阪21世紀計画のプレイベントと位置付けられた御堂筋フェア82。このイベントこそ、新しい大阪創造へのファンファーレとなるはずである。(中略)
 1年弱の準備期間しかなかった御堂筋フェア82だったが、成功裡にそれを終えることができた。だが終わったその瞬間から、新しい大阪創造の胎動が始まっている。「奮い立て・大阪」、の期待の中でー。
■祭りのあとの…
  よく「祭りのあとの空虚さ」と言われる。私自身、こうした感動的なイベントに参加させていただいたのは初めてであり、イベント終了後の数日は、何か虚脱感に襲われ、祭りのあとの空しさを人並みに味わっていた。だが、その思いは他のスタッフ仲間たちも同じであったようだ。イベント終了とともに仲間が散々になること絶えられなかったのだろう。
それと、われわれスタッフの先頭に立って引っ張ってくれた代表委員で、事実上の実行委員長を引き受けていただいた能村龍太郎・太陽工業会長に対する感謝の念も強かった。誰いうともなしに、スタッフ一同で能村さんをご招待し、慰労しようということになった。 
昭和58年1月、正月明けの一夜、大阪ミナミの大衆酒場に能村さんをお招きし、文字通りの感謝と慰労の集いを持つことになった。
 それには十分な意味があった。当初、ファッションショーだけのプログラムでスタートしたこのイベントが、関連する周辺イベントを次々に加えることで、予算規模は2000万円から4500万円に膨れ上がった。その原因のすべては加熱するスタッフたちにあった。しかしその間、能村さんからの苦情はほとんどなかった。ただその最終金額に達した時、事務局を務めた私に、「もうこの辺にしておかなければいけないのではないか」と釘を刺したことがあった。しかし、すでにスタッフ会議でもそのことを打ち合わせており、能村さんのチェックは、私の胸に伏せたままだった。
それもあって、若い連中にこれだけの自由を与えてくれた当時の関西財界ニューリーダーに、スタッフ一同、掛け値なしの感謝の念を抱いたのである。
■能村塾の発足
 楽しい集いであった。そして座が盛り上がる中で「せっかく、能村さんを中心にこうした同志的結合のグループができたのだから、何らかの形で会を作り、継続させようよ」という提案がなされ、その場で能村さんを口説き落とす。その場で、グループ名を『能村塾』とする。能村さんを塾長として、能村さんから若いわれわれが人生や経営を学ぶ場としてこの会はスタートすることになり、昭和58年3月に正式に発会する。
 隔月ごとに例会を開催、平成12年4月の例会で103回目、発足18年目に入っている。会則の目的に「太陽工業株式会社代表取締役会長能村龍太郎氏を中心に異業種のメンバーが集い、交流を深めるとともに、新しい関西の創造のため、研究活動ならびに実践活動を展開する」ことを掲げている。
 異業種のメンバーと研究・実践活動の展開がこの会の持ち味である。現在のメンバーを見ても大企業の経済人、自主独立の経営者、シンクタンク経営者、経済団体職員、政治家、大学教授、官僚に加えイベンター、ファッションモデル、歌手、マスコミなど多士済済。
活動内容もあるマスコミにも取り上げられた行政・経済団体への提案(「大阪ニューイメージ戦略」)活動のほか、最近では同じような活動を続ける勉強会「おおさか21の会」と連携して、昨年3月に倒産した広告代理店の老舗萬年社が保有していた広報宣伝関係の資料を、会員の浄財を集めて買い受け、設立準備中の「大阪市立近代美術館」にそのまま寄贈するなどの活動も行っている。御堂筋フェア82が生み落としたユニークな勉強・実践グループである。
■「大阪コレクション」への胎動
 能村塾とともに、もう一つのグループが御堂筋フェア82を介して生まれていた。能村さんとコシノヒロコさん、そして同イベントの成功に報道の立場で多大なる貢献をしてくれた朝日新聞の萩尾千里編集委員(当時)、そして私を加えた4人が1年に1、2度、同窓会の感覚でゴルフを楽しむようになっていた。

(イラスト: Yurie Okada, Rogo Ltd.)

 何度目のゴルフだったろうか。御堂筋フェアから4年目の昭和61年3月、場所は兵庫県のライオンズゴルフクラブだった。いつものように18ホールを楽しんだあとの談笑の一時、コシノさんが自分の思いをわれわれに語り出したのである。もちろんメモをしてあるわけではないから、私の記憶を頼りにコシノさんの話しを再現すると…。

 「御堂筋フェアでの私たち3姉妹のジョイントコレクションでの感動は、今も記憶に鮮烈です。実はあの頃、大阪に残っていてはビジネスに取り残される、東京に出ようかしらという思いを持ち続けていました。しかし、あの事業に大阪の経済人や行政の方々が発揮してくれたパワーを知って、ああ、やはり私が頑張る場所は大阪だ、と東京行きを思いとどまったのです」

 「それで一つお願いがあるのです。今大阪は、国際都市大阪を標榜していますが、私はクリエーターが好んで住めない都市は、決して国際都市には育たないと思っています。では今の大阪にクリエーターが居ないかと言えばそんなことはない。たくさん活動しているのですが、芽を出すチャンスが少ないのです。例えばファッションクリエーターにしても若い才能のあるデザイナーが大勢いるのですが、社会に認めてもらうためには発表の場を作らなくてはいけない。でも、それにはお金がかかり過ぎてなかなかその場を作れないのが現状です」

 「そこでお願いがあるのです。私はあのジョイントショーの後、ずっと大阪コレクション構想を暖めてきました。決して贅沢は言いません。お金のない若いデザイナーが作品を発表する場所作りを、財界の皆さんに作っていただきたいのですが」

 ざっとこのようなコシノさんの提案であり、協力依頼であったと記憶している。

 「それは素晴らしい提案だ」と、この話に即座に反応したのは新聞記者である萩尾氏と私であった。あの御堂筋フェア82のあと、翌年には財団法人大阪21世紀協会が設立され、そのメインイベントとして「御堂筋パレード」がスタートし、今日に至っている。また、南御堂難波別院が境内の大改修を行い、ゴルフの日の何日か後に自らの主催で大々的なジャズコンサートを開催することになっていた(第3回で紹介)。それに対してファッションの切り口では、それを継承する事業が全く実施されていなかったからだ。

 ただ、「素晴らしい提案」と答えたものの、今度は単発のイベントではない。継続しなければ全く意味がないし、それには結構費用がかかりそうである。2人は、能村さんに視線を向ける。そしてこう発言するのだった。

 「それは素晴らしいアイデアですな。私たちは大阪21世紀計画のプレイベントとしてあのお手伝いをした。そして次の年からスタートした御堂筋パレードも定着してきた。それで一応責任を果たしたと思っていましたが、コシノさんのおっしゃる通りです。皆さんがやろうと言われるなら、私も協力しますよ。ひとつ大阪商工会議所の佐治会頭にご相談してはどうでしょうか。佐治さんがやろう、と言われたら、その時考えましょうか」

 こうしてコシノさんの提案は、当時の佐治敬三大阪商工会議所会頭に持ち込まれる。その反応如何で大阪コレクションの方向が決まるのである。(文中の肩書きは当時)
『千里眼』No70(2000年6月25日)掲載

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