【第6回】
《第1章 大阪コレクションの発足-続》

■佐治会頭の即答は「やってみなはれ!」
 いま思えば、昭和61年2月9日、兵庫県吉川(よかわ)町のライオンズカントリー倶楽部での懇親ゴルフの1日こそ、「大阪コレクション」の種を蒔く貴重な1日となった。当時、コースに出るのが10回目そこそこの私は、信じられないスコアを記録しているのだが、その後の動きを見れば、「何のスコアごとき…」の心境である。

 能村龍太郎・太陽工業会長の発議で、「大阪コレクション」を創設したいというコシノヒロコさんの提案は、その2ヵ月余前に大阪商工会議所会頭に就任したばかりの佐治敬三サントリー社長に伝え、実施についてはその判断に委ねることになった。思えばその3年余前、御堂筋フェア'82を支え、その成功をあれだけ喜んでくれた佐治さんである。萩尾千里・朝日新聞編集委員も私も、新聞記者の読みとして、おおよそ、その答えは想像できていた。

 翌10日(月)、最も若年の私が当然のごとく、サントリー本社にかねてから懇意の柴田暁・秘書室長を訪ねていた。そして前日のいきさつを説明、佐治会頭の意向を打診してほしいとお願いをする。この私の要請に対して柴田さんは、個人的にこの計画に賛同するとともに、「佐治は、デザイン全体に興味を持っており、総合デザイナーズ協議会の会長を務めている。ファッションについても、何か仕掛けをしなければいけないと、常日頃いっており、この提案にはすぐに乗ってくると思いますよ」との判断を加えた。
マイドームおおさかの外観
第1回会場となったマイドームおおさか
(イラスト: Yurie Okada, ROGO Ltd.)

 2日後の12日、柴田さんから電話が入る。「佐治が、是非やってくれといっている。ついては、佐治からもお願いがあるので、会って話をしたい」との内容だった。

 その数時間後にはサントリー本社に参上、柴田さんから佐治会頭の意向を聞く。

 「以前から気にしていたことであり、さっそく実現に向けて動いてもらいたい。ただし計画中の"マイドームおおさか"が来年(昭和62年)9月にオープンするので、その柿落とし期間のイベントとして、その第1回目をやってほしい」

 「マイドームおおさか」は、大阪商工会議所と大阪府、大阪市が協力して、大・中規模の展示場や会議機能を持つ都心型展示場として計画され、翌年秋のオープンを目指して建設中だった。副会頭時代にそれを担当し、会頭就任後は初の大型プロジェクトとなっていた。そのマイドームおおさかのオープンを飾ってほしいというのが佐治会頭の注文だった。   

 佐治会頭の意向は、その日のうちに能村・コシノ・萩尾の各氏に伝わった。そして私を含め4人とも、会頭の姿勢が確認できれば、前進するのに何の躊躇もなかった。そして萩尾さんと私は、今後の進め方を検討したく、コシノさんと大阪商工会議所の深江茂樹地域振興部長に声をかけ、2月14日、心斎橋の鰻谷にあった『サイドバンク』で会合、どのような形で「大阪コレクション」を立ち上げるか、またコンセプトをどこに置くか、継続を前提にするにはどのような運営組織が必要か、などを研究する「大阪コレクション研究会」を発足させることで合意する。

 ライオンズカントリー倶楽部の懇親から、わずか5日後のことである。考えてみれば、「ともかく、やってみなはれ!」の、案ずるより行動を先とする面々ばかりが、この劈頭に顔をそろえていたことになる。ここまでは、ことは順調に進みはじめた。

■「大阪コレクション研究会」
 第1回の大阪コレクション研究会は、昭和61年4月4日に開催された。この研究会で大阪コレクションのアウトラインを取りまとめ、それを佐治さんが会頭を務める大阪商工会議所に提言、同会議所を核に実施に移してもらおう、というのがその会の趣旨だった。

 初会合に参加したのは8名だった。能村さんを顧問、萩尾さんを座長に、コシノ・柴田・深江・私、それに新たにトータルファッション協会(略称ATF)の村山昇事務局長、ファッションの業界雑誌『チャネラー』の元編集長で、当時『月刊せんば』の編集長だった広瀬豊氏がそのメンバーだった。提唱グループのわれわれ4人と、佐治会頭のスタッフ2人、専門の立場から2人の布陣であった。

 研究会はこの日を第1回に、8月8日に第2回、9月19日に第3回、そして昭和62年1月31日に第4回、そして6月9日に5回目となる最終研究会を開催、開催の基本骨子をまとめる。

 その間、「大阪コレクション」の開催時期は佐治会頭が希望する「マイドームおおさか」がオープンする昭和62年9月以降で、ファッション業界の秋のコレクションスケジュールを考え、同年11月とすること。また(1)大阪の活性化事業の一つとして位置付けること(2)新人デザイナーの発掘・育成とスターづくりを目指すこと(3)運営組織は官民一体となって編成すること――を確認、その研究過程の関係筋の反応から、研究会メンバーのほとんどが、実現に確かな手応えを感じつつあった。

 だが、好事魔多し、とはよく言ったものである。手応えをつかんだ辺りから、難題や困難が降りかかってくるのである。


(第1回大阪コレクション コシノヒロコさんの作品から)

■大商の実質的戦線離脱
 最大の難問は、大阪商工会議所の戦線離脱であった。公式の理由は次のようなことであった。

 「大商としては、ファッション産業の振興のため社団法人トータルファッション協会を設立しており、産業振興とデザイナー支援の差はあっても、大きくは同趣旨の事業であり、これを大商が担当するわけにはいかない」

 こうして、9月19日の研究会から大商からの参加は見送られた。だが、かといってトータルファッション協会に積極的に働きかけ、その事業を担当させるというわけではなかった。このため、研究会メンバーである村山氏を通じて、ATFがこの事業を引き受けるべく要請するが、それに対しても、同協会は田中専務理事名で「協力はするが、事務局までは引き受けられない」という正式回答を研究会に寄せてきた。

 この時点で、なぜ、大阪商工会議所とATFが離脱していったのか、真意は今も薮の中である。しかし、当時の非公式な我々との話の中で、私自身が理解するのは次のようなことではなかったかと思う。

 第1は、佐治会頭の意向を酌んだ我々の研究会とはいえ、あくまでも外部の我々が主体であり、大商の立場はその一メンバーにすぎなかったことである。大商のプライドからそれを受け入れることはできなかったのだろう。「サントリー社長としての佐治さんの意向であり、大商会頭としては、その意向はもっていない」とする"詭弁"が弄されたのもその頃である。

 第2は、机上の計算では軌道に乗せることはできる、と判断したものの、実際にはリスキーな要素が多分にあったことである。大商サイドから頻繁に出された懸念は、誰が金を集め、もし赤字になったら誰が責任を取るのか、という話であった。確かに団体職員としては正しい判断であったかもしれない。多少の計算はできていても、研究会の動きは、できるとかできないではなく、大阪のために必要だから、とにかくやろうという情熱が、研究会全体の雰囲気を支配していた。

(第1回大阪コレクション 繁田勇さん[左]と平戸鉄信さん[右]の作品)

■最終案の策定
 ここに至って我々は、大きな壁に突き当たり、佐治・能村両リーダーの判断を仰ぐことになる。そしてお2人の意見は
 「それならば、当面プロジェクトチームをつくり、それで乗り切ろう」
ということであった。この一言が、消滅しかけた大阪コレクションへの灯を再び燃え上がらせることになる。そして昭和62年1月31日の大阪コレクション研究会で、最終的な実施案をまとめることになる。その内容は次の通りであった。

〈基本コンセプト〉
(1) 大阪の活性化のための重点事業と位置付け、官民一体の運営組織を作る。
(2) 世界の檜舞台で活躍できる若手デザイナーの発掘・育成を目指す。
(3) アジアのファッション拠点としての地位を目指す。
〈運営組織〉
(1) 運営母体として「大阪コレクション開催委員会」を発足させる。
(2) 同委員会は大阪府・大阪市・大阪商工会議所・大阪21世紀協会で構成する。
(後に関西経済同友会も参加、5団体で構成することになる)
(3) 会長には大阪商工会議所の佐治敬三会頭に就任を要請する。
(4) 事務局は、当面プロジェクトチームを編成して対応するが、事業が軌道に乗れば大阪商工会議所もしくはトータルファッション協会に委託する。
(事実、2年目・3年目とその実現を働きかけるも、両組織の合意を得ることができず、その段階でプロジェクトチームの存続を正式に決める)
〈資金計画〉
(1) 大阪府・大阪市に600万円の拠出を依頼する。
(実際には、3年後に同額の拠出が実現するが、初年度400万円でスタートする)
(2) 大阪商工会議所に300万円、大阪21世紀協会に200万円の拠出を依頼する。
(3) 受益者負担として出品デザイナーに出品料として300万円の出資を義務付ける。
(4) 不足分は、入場チケットを3000円で販売し、出品デザイナーおよびプロジェクトチームが販売を担当する。
〈開催日〉
「マイドームおおさか」が昭和62年9月にオープンすること、東京コレクションが10月上〜中旬に開催されることから、11月25日〜27日の3日間とする。

(第1回大阪コレクション 古川雲雪さん[左]と山中緑さん[右]の作品)

■試行錯誤の具体化作業
 1月31日の最終「大阪コレクション研究会」で以上の内容を決めたものの、それからのプロセスも誤算と試行錯誤の連続だった。

 第一の誤算は、それまで座長として研究会を引っ張ってきた朝日新聞編集委員の萩尾さんが、突然、関西経済同友会の事務局長に抜擢されたのである。(その後、総会で常任幹事事務局長に就任)

 同じ財界記者として、萩尾さんがいずれこのポストに招かれるであろうことは十分に予想していた。だが、当時49歳、新聞記者としてあぶらの乗り切ったこの時期に、まさか、という思いであった。もっとも、大阪コレクションを開幕させるまでは、今まで通り責任を持ってプロジェクトチームの一員であり続けるという約束を得て、コレクションオープンのその時まで、チームリーダーとしての職責を果たしてもらうことになる。

 第二の誤算は、われわれが行政の仕組みを全く知らなかったことから生じた。われわれとて行政の次年度予算がその前の年の年末までには事実上決まってしまうことは承知していた。だが、補正予算があるはずだから、2月、3月の段階で動いてもなんとかなるだろうとタカをくくっていた。ところが大阪市には補正予算制度はなく、大阪府も新規事業で補正を組むことはないということをその時になって初めて知ることになるのだ。また事実上戦線離脱を謀っていた大阪商工会議所も、いかに佐治会頭が関わっていようと事務局の壁は厚かった。

 こうした資金計画については能村さん、そして萩尾・柴田・私の4人が担当していたが、4人とも頭を抱えるばかり。とにもかくにも、やるだけやってみようと、気持ちを奮い立たせたことが記憶に新しい。

 その突破口を切り開いたのは柴田さんで、佐治会頭を支える筆頭副会頭の近藤駒太郎・大和屋繊維工業社長が救いの手を差し伸べてくれたのだ。同副会頭の根回しで大商からの300万円ばかりか、会場となる「マイドームおおさか」からも200万円の協力資金が出るとの柴田さんの報告である。さらに、大阪21世紀協会も、昭和57年の御堂筋フェア'82の推進者の1人であった加藤良雄専務理事が200万円の拠出を了承してくれた。あとは大阪府と大阪市である。

 2月26日、われわれ4人はまず、補正予算制度のない大阪市の桐山謙一経済局長を訪ね、大阪コレクションの開催プランを説明するとともに、窮状を吐露、何らかの手立てがないか伺うことにした。桐山経済局長は、この構想自体には大変な興味を抱きながらも、当然ながら、この2月末の段階での予算化はどうにもならない、との返事であった。意気消沈するわれわれであったが、「持ち帰って何らかの手立てがないかどうか一度検討してみます」という一言にかすかな期待を寄せるだけであった。
 その1週間後、桐山経済局長から能村さんに、会いたい旨の連絡が入る。そして翌日、事務方として私も同道、大阪市役所に同経済局長を訪ねるのである。

(文中の敬称はいずれも当時)

『千里眼』No.71(2000年9月25日)掲載

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