【第7回】 《第1章 大阪コレクションの発足-続》 |
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■大阪市の協力を得る | |||||||||||||||
大阪市の桐山謙一経済局長から、「先日の依頼に対し、市としての考え方をまとめた。それについて相談したい」旨の連絡をもらったのは、昭和62年3月初めだった。さっそく太陽工業の能村龍太郎会長と私が、桐山局長を訪ねる。多分良い返事であろうと想像したものの、しかし、「相談したい」の一言に不安は残った。 経済局長室には豊田耀子経済局商工課参事も同席していた。 桐山さんと能村さんのとりとめのない時候の挨拶が終わったところで、やおら、桐山さんは、私に 「折目さん、400万円では駄目だろうか。先日もお話したように、大阪市としても是非この構想を立ち上げてもらいたいと考えているが、なにぶん大阪市には補正予算の制度がなく、しかもこの時点では来年度予算はすべて固まっている。まともに考えると、1年待ってもらわなければならないのだが、予備費や関連予算の切り詰め分を寄せ集めると、何とか400万円までは捻出することができる。しかし局長の権限ではこれ以上はどうにもならない」と切り出してきた。 |
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(イラスト: Yurie Okada, ROGO Ltd.) |
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後になって聞くと、商工課でデザイン・ファッションを担当していた豊田参事が、かなり強力に桐山局長を説得し、自ら全体予算の調整をしたらしい。 もちろん、イエス・ノーを答えられる立場にはなかったが、桐山・豊田両氏が、1週間を掛けてぎりぎりの調整をしてくれたことだけは感じ取れた。また、我々の方としても、詳細な計画が確定した上で、大阪府・市に600万円の分担をお願いしたわけではなかった。大雑把に、これだけあれば、あとはデザイナーの自己負担とプロジェクトチームの頑張りで何とか乗り切れるだろう、と読んでいたにすぎない。 それよりも、400万円とはいいながら、大阪市が正式にその分担に応じてくれるという事実の方が貴重だった。この、"グリーン交遊"から突如飛び出したプロジェクトが、正式に大阪市の認知を得ることになるからだ。そのことを考えると、マイナス200万円分は自己努力で対応すれば良い。その場で能村さんの了解を得、桐山さんには次年度以降での上積みをお願いし、了承する旨を答える。 事実、このお2人の配慮と支援がなければ、大阪コレクションの発足は1年延びていただろう。いまも、「大阪コレクション」立ち上げの大きな貢献要素として、感謝の念は忘れない。 |
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■大阪府も即座に了承 | |||||||||||||||
この朗報は即座にチーム全員に伝わった。大阪市が先に認知してくれれば、大阪府も右へ倣えしてくれるだろうし、何といってもここには我々の理解者がいてくれる。さっそく私は、後に副知事になる西村壮一総務部長を訪ね、事情を説明するとともに、後日、担当セクションの商工部に正式に協力要請するに当たってのサジェスチョンをいただいた。 そして、能村さんと私は、藤沢修商工部長、豆成通彦同部商業課長に400万円の分担金の出資をお願いし、その場で承諾してもらったのだ。 一方、大阪市の了解を得た後、メンバーの萩尾千里関西経済同友会事務局長と柴田暁サントリー秘書部長の2人は、すでに基本合意に達していた大阪商工会議所に近藤駒太郎副会頭、大阪21世紀協会に加藤良雄専務理事を訪ね、それぞれ正式に分担金200万円の了解を取り付けてきた。こうして、大阪コレクション開催委員会の構成メンバーになる大阪府・大阪市・大阪商工会議所・大阪21世紀協会の4団体の正式承認を得、具体的な作業に入っていく。大阪コレクションは、実現に向けて大きく一歩を踏み出すのである。 |
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■「ひと」がいたあの頃の大阪 | |||||||||||||||
1年余前、たまたまゴルフを楽しんだ能村・コシノ・萩尾、そして私のプレイ後の懇談から降って湧いた「大阪コレクション」への夢が、いよいよ実を結ぼうとする。それこそ夢見心地の心境だった。 いま思うと、本当に人の輪に恵まれての立ち上がりであった。そして、新規の事業を起こすのに、当時の大阪には要所要所に「ひと」がいた。何よりも、「必要なことだ、是非やってくれ!」と檄を飛ばした佐治敬三大阪商工会議所会頭の存在抜きに、この実現は有り得なかった。また、佐治さんの盟友で、身銭を切ることも厭わなかった実行派の能村さんが、常に陣頭に立ち、バックアップしてくれたことが大きかった。5年前の御堂筋フェア'82、そして大阪コレクションにプロデューサーとして関わったサンデザイン研究所の大出一博さんは「大阪にはこのような財界人がまだいるのだね。東京ではもうこんな方にお目にかかれない」と心底感服していたものである。 また、当初、リスキーな要素を抱えていたにも拘らず側面から支援してくれた近駒さん(近藤さん)、加藤さん、桐山さん、藤沢さん、西村さん。また、萩尾さんや柴田さん、そしてコシノさんとのチームプレーも忘れ難い。鬼籍に入られた方々を含め、お一人おひとりの顔が浮かんでくる。重ねて言うが、本当にあの頃の大阪には、必要なところに必要な人がいたと述懐する。お祭り好きな大阪人、いざ実行となれば一丸になる大阪パワー。まさしく、"やってみなはれ精神"がこの時代の大阪にはみなぎっていた。それが稀薄になりつつある大阪の現在がやはり気になる。 |
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(第2回大阪コレクション コシノヒロコさん[左]と山路俊美さん[右]の作品) |
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■7月、晴れて設立総会 | |||||||||||||||
その後の大阪コレクションの準備は順調だった。萩尾、柴田、そして私の3人はその後何度かの会合を持ち、次々に資金計画、運営組織、出品デザイナーの選定、ショープロデュース会社の選定などの事務をこなしていった。そして新たな仲間として、我々の友人でもある広告代理店博報堂の堀川紀年氏に、コレクション運営の立場から参加してもらうことになる。3年後、我々は広告代理店のバックアップを返上、自立の運営体制を整えるのだが、そのノウハウは堀川さんをはじめとする博報堂の皆さんから得ることになる。 6月9日、サントリー本社の地下1階にあるサントリーローヤルで最終打ち合わせ会を持った我々は、昭和62年7月15日に念願の「大阪コレクション開催委員会」設立総会と記者発表の開催を決める。ライオンズカントリー倶楽部でコシノヒロコさんからこの提案を受けてからおよそ1年半の準備期間を要しての晴れの日であった。 この日のことを、やはり『関西ジャーナル』は私の文章で感動的に伝えている。その一部を引用させていただく。 「…このコシノさんの大阪コレクション構想を受け止め、大阪活性化の有力手段に、 と乗り出してきたのが、大阪商工会議所の会頭を務める佐治敬三サントリー社長であり、5年前のコシノ3姉妹ジョイントコレクションを支え、リードした能村龍太郎太陽工業会長らだった。 ともにファッション産業とは直接関係のないセクションに立つ人たちだが、ファッション産業が大阪経済の活力源であることは承知のこと。直ちに大阪府、大阪市、大阪商工会議所、大阪21世紀協会にもこの話を持ち込み、その合意を得、本格的な設立準備に入っていった」 必ずしも順風満帆にここまで走ってきたわけではないが、記者であると同時に、このプロジェクトの事務方の一人としての私の筆に、途中のいざこざはともかく、ここまでに各界の方々から頂いた感謝の気持ちが感じられる。さらに、わが国のファッションプロデューサーとしては第一人者の大出一博サンデザイン研究所代表の感想を交え、次のようにも書き続けている。 「このような官民一体のプロジェクトは東京では考えられないこと。とにかく大阪の財界人には、ここという時の非常なバイタリティを感じさせられる、と(大出氏は)語るが、府と市、そして産業界とボランティアグループが一つになってここまで持ってきたのがこのプロジェクトの面白いところである」 このバイタリティがいつの頃からか大阪に稀薄になってしまったのは残念だが、新しい試みにチャレンジした当時の私たちの心意気がこの記事からも伝わってくる。そしてこの7月15日の設立総会で、以下の事項を決め、11月25日からの本番に向け、一段とその走りを速める。 |
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(第2回大阪コレクション 菅井英子さん[左]と坂上勉さん[右]の作品) |
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■開催の趣旨と組織 | |||||||||||||||
まず設立総会は、萩尾千里さんが草稿を作成した「開催の趣旨」を承認する。この文章は現在も、状況は変わっていないとして継承されているが、その基本となる部分を引用しておきたい。 「…かつて世界に雄飛した伝統ある関西の繊維産業を、再び生きいきと活力ある産業に育てるには、素材からアパレルに至るファッション産業を総合的にとらえ、品質と感性をとことん磨き上げていかなければなりません。その先導的役割を果たすのはデザイナーです。まさにすぐれたデザイナーとファッション産業の発展は不可分の関係といえます。…とすれば、世界の檜舞台で活躍する多彩なデザイナーをほうはいとして輩出する土壌をこしらえ、育てていく"場"を作ることは大阪にとって、関西にとって急務といえます…」 また委員会の役員は次の人たちをもって構成された。(役職は当時)
さらに出品デザイナー6人もこの時点で正式に決定する。開催委員会が推薦するコシノヒロコさん、細川伸さん、それに厳しい選考委員会で選ばれた古川雲雪さん、繁田勇さん、平戸鉄信さん、山中緑さんが歴史的な第1回大阪コレクションに出品したデザイナーたちであった。いずれも個性的な人たちで、私も含め、この時初めてクリエーターなる人たちに接した我々は大いなるカルチャーギャップを感じたものである。その交遊は今後、時に応じてご紹介することになるだろう |
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■年2回開催を目標に | |||||||||||||||
こうして第1回大阪コレクションの開催準備はすべて整った。事業予算は4800万円と見積もっており、開幕前に資金確保の目途が立っていたが、残念なのは、パリや東京など多くの世界的コレクションが、秋と春の年2回開催を実現しているのに、大阪はこの時点で、ようやく年1回開催にこぎつけるのが精一杯であったことだ。 『関西ジャーナル』は私の記事で、このことを次のように記している。 「世界のコレクションの仲間入りをめざしてスタートした大阪コレクションだが、世界のどのコレクションとも違うのは、行政や財界、そして市民がバックアップしていることだ。第1回目の成果を見ながら、いずれ春・秋年2回の開催にまで持っていきたい意向である。その間に大阪で学び、大阪で育ったデザイナーたちがどこまで世界に手を掛けるまでに伸びていくか。それが今後の最大のポイントとなろう」 その後、年2回開催が実現するのは、11年後の平成9年を待たねばならないのだが、その間、世界のファッション界には"ヤングファッション"といわれる若者市場が形成され、文字通りその中で、大阪コレクションから巣立った若いデザイナーたちが、世界に飛び出していくのである。 次回以降、大阪コレクションの発展とデザイナーの活躍、さらにトップリーダーと若者の交遊などに触れていきたい。 (文中の敬称はいずれも当時) |
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『千里眼』No.72(2000年12月25日)掲載 |
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