【第10回】
《第3章 大阪コレクションの光と陰》

■大阪府・市の正式認知
 紆余曲折を経ながらも、「大阪コレクション」は順調に走り出した。今年(2001年)がスタートからちょうど15年になる。その現場を担当してきた私としては、「よくぞここまで継続できたもの」と実感する。つねに問題点を抱えながら、あえぎあえぎの歩みだったが、やはりその継続が関西の活性化に一隅を照らす結果になったのだろう。光と陰を意識し続けた道のりでもあった。
 「大阪コレクション」にひとすじの光を感じたのは、1989年10月のことだった。その頃は第3回の準備の真最中。韓国デザイナー参加の問題も解決し、いつものように細々とした仕事を一つ一ひとつ片付けていた。だが、次年度の開催を考えるとまたまた頭の痛い課題を抱えていたのだ。


(イラスト: Yurie Okada, ROGO Ltd.)

 3年前、大阪コレクションの実現に大阪府の協力を要請した際、実行委員長の能村龍太郎太陽工業会長と私は、当時の藤沢商工部長、豆成商業課長からきっちりと、ある釘をさされていたのだ。
 「大阪コレクションの構想は大阪にとって是非とも必要であり、我々としても応援させてもらいます。しかし折目さん、我々は、いつまで応援しなければならんのですか」
 「はぁ? どういうことでしょう」
 「軌道に乗るまでは当然協力させてもらいますが、未来永劫に、というわけにはいきません。いずれ自立してもらわなければね…」
 「と言われても、大阪コレクションは営利事業ではありませんし、自立せよと言われましても、金のない若いデザイナーを育てようというプロジェクトですから、自立にはかなり時間がかかると思いますよ」
 「しかし、役所の立場ではそれでは困るのです。事業として無理でも、産業界の支援を得て、いずれは自立するということでないと、ここで金を出す、とは言えないのです」
 「自立への猶予期間は何年ですか?」
 「3年ですね。3年間はきちんと補助金を出します。そこでもう一度話し合うことにしましょう」
 「…それは厳しいですね」

 ハタと会話が途切れた時、能村さんが、一言挟んだ。
 「折目さん、それはまた後で相談することにして、3年間は補助金をいただけるということですから、ここは…」
 それからおよそ3年、その時の会話を意識しながらも、さしたる対策は打てないでいた。というより、肝心の繊維業界の協力がほとんど無く、自立への計算はとても出来なかったのだ。
 その3年目が今回で終了する。その準備を進めながらも、つねにその不安を抱えながらの進行であった。

(第3回 コシノヒロコさんのステージより)

 ところが、である、第3回コレクションを1ヵ月後にひかえた10月のある日、あるパーティで、豆成さんの後を受けた園村商業課長に呼び止められたのだ。
 「折目さん、間もなく第3回大阪コレクションだね。準備が大変でしょう。でも大阪コレクションは評判が良いから、我々としては来年度の予算案の事務局原案に大阪コレクション予算も入れましたからね。よろしくお願いしますよ」
 その段階では予想だにしなかった一言だったが、抱える不安を表に出さず、
 「そうですか。まあ、頑張りますわ」
 当然の成り行きのように答える私だった。そして、大阪府の予算化は当然、大阪市と連動しているはずである。3年間抱え続けた心配事は、この一言で一気に氷解する。そしていつの間にか大阪府・市の出費の形も、支援する「補助金」から、当事者の一員であるという意味を持つ「分担金」に変更されていた。ここで正式に大阪府・市の認知を得ることになったのだ。

■官民の実験プロジェクト
 そんなこともあって、大阪府・市とわれわれの関係はすこぶる良好に進んだ。今もなお守り続けてくれているが、「金は出すが、口は出さない」の姿勢を府・市ともに堅持してくれている。
 「官民協力」あるいは「民間活力の活用」とか言われる。手前味噌ながら、その典型的なプロジェクトが、わが「大阪コレクション」であると私は信じ続けている。時には、府・市の立場を慮かり、遠慮がちに提案するわれわれに、「それは面白い。来年といわず、すぐに着手してみては」などという逆提案があって、われわれを驚かせたことが何回かあった。もちろんそれぐらいだから、こちらからの提案が否定されたり、反対されることはそれ以降は皆無と言っても間違いではない。

 ともすれば官民共同プロジェクトは、金も出すが口も出すで、結局、官の論理を押しつけられ、衰退していくものが幾例もある。「民間活力の活用」と言っても、その実は民間の資金を活用することに止まり、その知恵やバイタリティの活用はほとんど無視されるのが現状であることは、多くの方々が指摘するところである。
 これに対して「大阪コレクション」での官民協力は、官側支出の割合が小さいからか、あるいは官民協力の実験プロジェクトの意識があっての故か、そんな弊害は全く意識させることはなかった。少なくとも私は後者の理由によるものと信じ、大阪府・市の皆さんに心から感謝をしているところである。

(第3回 平戸鉄信さんのステージより)

 「大阪コレクション」を対外的にアピールするとき、「世界のどのコレクションにも見られない官と民とクリエーターの3者の協力で成り立つ」点を標榜しているが、それは決して誇張ではなく、現実にそのような形で運営されているのである。それは私の密かな誇りでもある。
 近年、大阪府の財政事情の悪化から、事業によってはNPO組織を活用して実施する方向が打ち出されているが、その前例をわれわれ「大阪コレクション」が示したのかもしれない。いずれにしても、結果として私は、このプロジェクトこそ官民協力の実験プロジェクトであると信じて疑わない。

■「ワールド・ファッション・フェア」で冷や水
 だが、良いことばかりがあったのではない。府・市との一体感をようやく感じ出したこの頃でも、まだ大阪商工会議所との歯車は合わなかった。発足のいきさつからして致し方ない面もあるのだが、第3回「大阪コレクション」が開催されたこの年の11月、大阪では10数億円の資金を投入した「ワールド・ファッション・フェア(WFF)」が開催された。大阪商工会議所を中心に、京都・神戸の商工会議所などが協力する大々的なファッションイベントである。
 確かにその内容は豪華であった。世界の5大コレクションと言われるパリ、ミラノ、ロンドン、ニューヨーク、そして東京のコレクションメンバーからそれぞれ一人のデザイナーを招待し、大会場の大阪城ホールで華やかにそのショーは開催された。京阪神挙げての大イベントになり、前夜祭だけでも1億円以上をかけるこの事業は、手作り事業の大阪コレクションサイドから見れば想像を絶する大きなものだった。そしてその中でわれわれは多少の屈辱を味わうことになるのである。

 このWFFは、3グループのイベントによって構成されていた。第1グループは本体が主催する事業か、WFF組織が認める「国際的事業」。第2グループは大阪・京都・神戸の3都市が主催する「関連事業」。第3グループはWFFに関連して実施される「その他の事業」。
 われわれとしては、「大阪コレクション」が、いずれはアジアのファッション情報発信基地を目指していること、その年から韓国デザイナーが参加し、国際コレクションの一歩を歩み出したことから、是非とも第1グループの事業として認めてもらえるように働きかけるが、結局、その願いは適わなかった。
 「3都市の共同開催の建前だが、実質、大阪が取り仕切っている。そこで"大阪"という特定の冠を付けた事業を第1グループの事業として認めると、京都・神戸から様々な依頼が飛び込んで収拾がつかなくなる」というのが、その拒否理由であった。しかし結果を見れば、決して世界的と言えない京都・神戸の事業が第1グループに加えられ、「大阪コレクション」を拒絶した理由が、全く、取ってつけたものであることを知る。地団太を踏んで悔しがる私であった。

(第3回 古川雲雪さんのステージより)

 もちろん、われわれは大阪府・市の担当の皆さんとも事前協議し、大阪府主導で関係者を集めた会議を招集していた。その場で、「大阪コレクション」のコンセプトが単なる地域イベントではなく、行く行くは大阪の国際戦略に合致するものであることから、第1グループとして認めてほしいと正式に要請していた。しかし、その会合に出席していた大阪商工会議所の担当部長(WFF担当を兼務)は「その旨を責任者に報告する」と発言するだけ。ついにわれわれの要請に対する回答は一切なかったのだ。
 こうしてその年の第3回「大阪コレクション」は、WFF関連の「大阪の都市事業」としての位置付けで開催される。われわれを拒否する真相が奈辺にあったのか、ついぞ聞くことがなかったが、大阪商工会議所とのスタート時の冷めた関係を肌に感じていただけに、私としては「一発やられたな」の思いであった。

 しかし、悪いことばかりでも無かった。WFF直後に開催したこの年の「大阪コレクション」は、WFFが中規模会場として使用したマイドームおおさかを会場としていた。そこで、舞台から照明、音響といった設備の一切をそのまま活用することになり、大幅な費用削減に成功する。その年まで、準備資金が全く無く、関係企業からの借用で切り抜けていただけに、その年度のわれわれの余剰資金は、次年度からの準備資金として活用できることになったのだ。

 こうしてWFFが開催されたこの年の「大阪コレクション」は、名を捨てて実を取ることになるのだが、光と陰を体に感じつつ歩みを続ける「大阪コレクション」であった。
(文中の敬称はいずれも当時)
『千里眼』No.75(2001年9月25日)掲載

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