【第12回】 《第3章 大阪コレクションの光と陰-続》 |
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■春と秋、年2回開催への動き | ||||||
「大阪コレクション」の最大のウィークポイントが、年1回、秋(11月)のみの開催であったことは前回述べた。パリコレクションやミラノコレクションなど、世界の主要コレクションがいずれも年2回開催され、春にはその年の秋ものと翌年の冬もの、そして秋には翌年の春ものと夏ものの作品をそれぞれ発表、バイヤーやジャーナリストに強くアピールし、ビジネスに結びつけていることは、ファッション界の常識だった。 それが年1回の大阪コレクションでは、春夏ものの作品しか発表できないのだから、とても一人前のコレクションとは言えなかった。 2年ほどコレクションを体験したあたりから、年2回開催に対するデザイナーたちの願望が強まっていた。何とか春・秋の開催を実現し、ビジネスに直結させたいというものだった。多少、ファッション界との付き合いを深めて、彼らの気持ちは痛いほどわかった私の心に「どんな形にしろ、年2回開催を実現させてあげたい」との思いがつのってきたのはこの頃からだった。 |
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(イラスト: Yurie Okada, ROGO Ltd.) |
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■小が大を飲む無謀な思惑 | ||||||
前々回だったろうか、1989年11月、京阪神あげて大々的に開催された『ワールド・ファッション・フェア(WFF)』で、大阪府の担当部局がリードし、「大阪コレクション」をWFFの本体事業に取り込もうという動きのあったことを紹介した。もちろん、その時の大阪府の考えは、「同じような事業を別々な団体が主催するのは不自然、一本化してはどうか」ということにあった。この大阪府の提案を、「もしかすると、大阪コレクションが飲み込まれる」との不安を抱きながら、事務局の立場で了承したのは、「これで年2回開催のチャンスが生まれる」と判断したからだった。 しかし、前々回にも記したように、この大阪府提案については、WFFの実質的主催団体であった大阪商工会議所の了解するところとならず、年2回開催の目論見は挫折する。 だがものごとの流れというものは不可思議なもので、この挫折をきっかけに、大阪府の担当者と私との間に密かな同志的連携が生じていった。WFFは、その年のみの単発事業だったが、翌年から規模を縮小してトータルファッション協会(ATF)がその事業を継承することになる。私としては、そのATFと連携することで年2回開催が実現できると読んでいた。 一方、大阪府は、具体的な開催趣旨は異なるものの、自らの予算を投入するファッション事業を一つの受け皿に一本化したいという思いがあった。しかもその本音は、ATFにそれを集約することにあった。2年後に担当が替わったあと、回顧談として当の本人から聞いたことだから確かである。 これに対して我々には、これも以前に記したが、2度、3度とATFに事務局を引き受けてほしいと要望し、その都度拒否されたいきさつがある。そして最終的に既存の組織に頼らず、プロジェクトチームで今後も運営していくことを機関決定したばかりであり、大阪府の密かな企みには同意しかねるものがあったし、意地と、事業への愛着もあった。しかし、最も大事なことは、年2回開催を実現することであり、大義のために小異を抑えることにしたのだった。 |
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(2003/04秋冬大阪コレクション[2003年4月開催]の、コシノヒロコさん [上2点]と、永田洋一郎さん、リンダ カオリ タナカさんのステージ) |
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もっとも、かくいうのは建前で、私の本音を明かすなら、お役所にがんじがらめにされているATFでは、「大阪コレクション」のフレキシブルな良さが失われる。できたらATFが実施しているコレクション(当初、秋に開催、後に春開催に変更)開催のための費用を大阪コレクション開催委員会で引き受け、我々の手で春・秋2回開催を実現したい、との思いも強かった。もちろん、通産省(現経済産業省)認可の社団法人の事業を、任意団体の我々に移管させることは、小が大を飲み込むに等しい。常識的にはありえないことであったが、実は、その無謀な夢を小さなわが胸に暖めていた。 |
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■新空港記念事業で共同事業 | ||||||
それから数年経った1994年。関西の念願プロジェクトであった関西国際空港が開港する年の早々に朗報が飛び込む。WFF事業で大きな剰余金を計上、その全額を管理する大阪商工会議所から「ATFと大阪コレクション開催委員会の共同主催で、関西国際空港開港記念事業として何らかのファッション事業を実施してもらいたい」との要請だった。事業費が事前に用意されているのだから、われわれがためらうものは何もない。早速これを了承し、ATFとの協議に入る。 当時、常務理事としてATFでこの事業を担当したのは石原修氏だった。「大阪コレクション」のスポンサー企業の1社であった東洋紡績の担当者として、われわれの事業推進を見守ってくれていたお一人である。それだけにわれわれへの理解も深く、厚い相互信頼の下で共同事業はスムーズに進む。 そして両者は、(1)事業は、国際空港開港に相応しく国際的にアピールできる内容にする、(2)事業分担はATFが資金管理、大阪コレクション開催委員会が企画・運営をそれぞれ担当する、(3)事業名を「国際ファション・フェスティバル・大阪(略称IFFO)」とし、運営委員会の委員長にはATFの担当副会長である和田亮介・和田哲社長(当時)をあて、大阪コレクションの副会長兼実行委員長の能村龍太郎・太陽工業会長が顧問に就任する布陣を整え、具体化作業に入る。 大阪コレクションの実行委員長を務める能村さんは、基本的に作業のすべてをわれわれ実行部隊に委ね、何かが生じたときには責任だけ取るとの姿勢をスタートから今日に至るまで貫いてくれている。しかし今回は2つの団体の共催だけに、当初、多少の不安はあったものだが、和田さんもまた同じ姿勢を終始保ち、石原さんと私を責任者にする実行部隊に作業を全面的に委ねてくれたのだ。あれから8年も経ついまも深く感謝している。 |
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(パンクの女王 ヴィヴィアンウエストウッドさんのコレクション[97年10月]) |
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一方、石原さんや私にしても、ファッションの企画者としては全くの素人、自ずから、我々が信頼する仲間であり、大阪コレクションの実行委員の一人である楢崎寛・京阪神エルマガジン社取締役編集部長(当時)と、海外のデザイナーと幅広いネットワークを持つ野田謙志・オリゾンティ海外担当部長に全面的に依頼する。 こうして実現したのが、大反響を呼んだあの「国際ファッション・フェスティバル・大阪」のイベントだった。ロンドンでパンクファッションを発表、一世を風靡し、その後、パリに拠点を移した後にも、今日に至るまで世界の人気ファッションデザイナーの上位にランクされるヴィヴィアン・ウエストウッドを特別ゲストに招聘、それに在阪のデザイナーを組み合わせた内容だったが、初来日のヴィヴィアン・ウエストウッドの人気は爆発的で、チケットも売れに売れた。そのため、ダフ屋も出たと言われるが、早々にチケット販売を中止し、安全を期して観客席の配置を大幅に組み替えるなど、うれしい悲鳴を次々に上げさせられた。 事業は大成功だった。しかも収支でもこの種の事業には珍しく大きな黒字を計上、剰余金が両団体の金庫に等しく収まる。だがそれ以上に大きな成果は、この共同事業を通じてATFと大阪コレクション開催委員会の相互理解が生まれたことだった。われわれ同様、ATFの石原常務も、年2回開催の実現を当然のように訴える。そして再び大阪府を行司役にして両団体による春秋、年2回のコレクション開催に向け検討チームを発足させることで合意する。そのチーフは、IFFOで運営委員長を務めてくれた和田さんだった。こうして、「大阪コレクション」は年2回開催の実現に向けて具体的に走り出す。 |
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(英国の帽子デザイナー、フィリップ トレイシーも来日) |
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■年2回、春秋開催の実現 | ||||||
検討チームの活動状況はあえて割愛する。両団体の利害が重なるだけに必ずしも順調にことが進んだわけではない。多少の対立も無くはなかった。しかし、大阪として、世界の主要コレクションがそうであるように、年2回、春と秋のコレクションを何としても持ちたいという願いは同じだった。実質的な調整役としての和田さんの思いもそこにあった。 こうして試行錯誤しながらおよそ半年間の議論を通じて決定したのは次のようなことだった。 |
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以上の合意に基づき、1997年3月に初の、春の「大阪コレクション」を開催する。 |
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■そして、主催団体の一本化へ | ||||||
「大阪コレクション」がスタートして11年目の春であった。こうして、「大阪コレクション」がスタート時からの念願であった年2回、春・秋開催が実現する。長い道程であった。だが一本化への動きはまだ残っていた。 ATFか大阪コレクション開催委員会か、いずれかへの主催団体の一本化であった。結果として、先の合意に基づく変則年2回のコレクションを3年間にわたって実施した後、2000年4月の「大阪コレクション」をもって、主催団体が大阪コレクション開催委員会に一本化される。予期した以上に一本化の動きが加速されたのには、大阪府の財政事情の悪化と関連事業の見直しがあった。 大阪コレクション側に一本化することで経費の圧縮を図ると同時に、両団体の特性を生かし、大阪コレクションが若手デザイナーを対象に実施してきたワークショップ(展示会)をATFに移管して、業界とデザイナーとの連携を強化することもその背景にあった。 ともかくこうして、不可能とも思えた大阪コレクション開催委員会の単独主催による年2回、春・秋のコレクションは実現するのである。 |
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(文中の敬称はいずれも当時) | ||||||
『千里眼』No.77(2002年3月25日)掲載 |
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