【第13回】
《第4章 大阪コレクションを支えた人たち》

■皆が「われこそ主役」で16年
 大阪コレクションは今年(2002年)で16年目に入る。スタートから10年間は11月の年1回、そして11年目からは年2回の開催になったから、この4月に終了した「2002/03秋冬大阪コレクション」で計21回のコレクションを重ねてきたことになる。いささか自慢になるが、私自身、よくぞここまで来たものか、と実感する。また、官民が協力したプロジェクトでこれだけ長期間継続し、しかもそれなりの評価を受け続けた実例は数少ない。
 その上、官民の皆さんの協力により、行政の財政危機、経済界の経営難の中にあっても負債を作ることなく、いささかの剰余金をもって今日に至っている。前回記したように、経済産業省認可の社団法人トータルファッション協会から、任意団体である大阪コレクション開催委員会が春のコレクション事業の移管を受けたのも、こうした実績に基づいたものであった。


(92年の第6回から始まった、ヨーロピアンジョイントステージ)

 そのような事を思い起こしながらその歴史を振り返ると、ご支援いただいた色々な方々のお顔が浮かんでくる。この事業ほど、大勢の人びとに支えられたものは他になかったであろう。本当に行政や経済界、そしてファッション界の多くの人たちの力がシンフォニーを奏で、パッチワークを描いて作り上げた作品がこの大阪コレクションなのだ。しかもそれぞれが半端な協力ではなかった。スタートから今日まで実行委員長を務めていただいている能村龍太郎太陽工業会長に私がよく言う冗談は、「関わっている多くが、われこそ主役・われこそキーマン、の意識が強く困ってしまいます」という嘆きである。実は私もそう思う一人なのだが、その都度、能村さんは「素晴らしいではないですか。それだけ皆さんの参加意識が高いということであり、それがあったからこそ大阪コレクションはここまで来られたのでしょう」と笑いながら言葉を返してくれる。
 その大阪コレクションも、今、新しい時代に対応すべく大きな曲がり角を迎えているのだが、この大阪コレクションの16年を支えた方々を思い起こしてみた。

■それは、19番ホールから始まった
 以前に書いたことだが、やはり何はともあれ、大阪コレクションの種を蒔いたあの日のゴルフ交遊から記さねばならないだろう。
 1986年2月のライオンズカントリー倶楽部。能村龍太郎太陽工業会長を中心にファッションデザイナーのコシノヒロコさん、朝日新聞編集委員の萩尾千里さん(現関西経済同友会常任幹事事務局長)と私の4人がゴルフを楽しんだ。そのメンバーは、大阪コレクションの前身になる「御堂筋フェア'82」の南御堂(東本願寺難波別院)境内で開催したコシノ3姉妹ジョイント・ファッションショーにかかわったメンバーである。それぞれの立場で、命を燃やしたわれわれには、強い同志意識が芽生え、年に1、2度、能村さんのご招待でゴルフを楽しむようになっていた。


(イラスト: Yurie Okada, ROGO Ltd.)

 そして、その日のプレー後の懇談の一時、コシノさんから、大阪コレクションの構想を暖めていること、何とか3年余前の3姉妹ジョイントショーの時のように財界の支援を得られないものかとの相談を受ける。理路整然と3人に話しかけるコシノさんの提案には説得力があった。
 「行政も財界も、大阪を国際都市に、と標榜しているが、クリエーターが好んで住まない都市は、国際都市にはなり得ない」「大阪にも才能のある若いファッションクリエーターが多く住んでいる。しかし、クリエーターが世に出るためには、その作品を発表し、社会にその才能を認めてもらわねばならない。しかしファッションの作品を発表するには費用がかかり、なかなかその場を作れないでいる」「何とか財界や行政が、発表の場づくりだけでもしていただけないか」「ましてや、かつての大阪は、繊維産業の中心地として自他共に認める町だった。その衰退を押しとどめ、再浮上させるためにもファッション産業の振興は重要だ」


(新進デザイナーの活躍も目覚しい。左=浦野年彦、萱谷龍馬、近藤恭朗の
ジョイントショー。右=茅野正彦・妹尾裕恵の作品)


 情熱一杯に語りかけるコシノさんに、我々は感動し、また共感した。そして次の行動を起こすべく、まず当時、大阪商工会議所会頭だった佐治敬三サントリー社長に相談することにした。佐治さんがOKしてくれるなら、すぐにも実現に向けて行動しようというのが3人の一致した考えだった。よくよく考えれば、当時も今も、頭と足が常に同時に動きだすメンバーのみがそこにいた。そして、相談を受ける佐治さんも、そのことについては人後に落ちる人ではない。たまたま私が主宰する『関西ジャーナル』紙の今年3月25日号の「現代に生きる人間学」欄に、そのことを紹介している。

■佐治敬三サントリー会長のこと
 「現代に生きる人間学」の欄は、私自身が取材現場で学んだことをまとめ、連載しているもので、その30回から32回を「佐治敬三氏に見る指導者像」にあてている。
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 「佐治さんが亡くなられてから、大阪は灯が消えたようになった」とさきに記した。「佐治さんなら何とかしてくれる」との期待を、この方になら託すことができた。佐治敬三サントリー会長は、理屈抜きで大阪の元気印であり、またそれだけの実績をわれわれの前に示してもくれた。
 私自身、佐治さんの理解を得て重要なプロジェクトを成就させた体験を持っている。今年16年を迎える「大阪コレクション」がそれだ。(中略)3人ともコシノさんの提案を前向きに受け止め、「大商の佐治会頭の了解が得られるならば」の条件で協力を約束する。
 その翌日、最も若年の私が伝令となり、柴田暁秘書部長(当時・故人)を通じて意向を(佐治さんに)打診する。その翌々日、柴田さんから早々に返事がくる。「私もそういう場が必要と感じていた。是非とも実現に向け動いてほしい」という伝言であった。
 実はわれわれは、正式な返事を待たずに「必ず佐治さんは了解してくれるだろう」との確信があった。盟友である能村さんがその一員に加わっており、しかも本当に必要なものを即座に判断する感性と、「まずはやってみよう」という佐治さんの行動パターンを熟知していたからだ。
 もし、その時の佐治さんの一声がなければ、実行委員長として今日まで実行責任者を務めることになる能村さんもここまで関わりをもたなかっただろうし、私もまた佐治さん、能村さんの後ろ盾がなければ、本業を犠牲にしてまでこの仕事にのめり込まなかっただろう。そしてこの事業も誕生しなかったと思う。(略)
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 もちろん佐治さんが、具体的な何かの仕事に携わったわけではない。だが、佐治さんの「是非とも実現に向けて動いてほしい」の一言がなければ、この事業は立ち上がらなかった。その意味で、佐治さんは忘れられない大阪コレクションのチャーターメンバーであり、最大の支援者でもあった。
 佐治さんの意向を確認した後、われわれは即座に行動に移した。どのような形の「大阪コレクション」とすべきなのか、いわばその設計図の作成作業である。その研究会の座長には萩尾千里さんに就任してもらい、コシノヒロコさん、柴田暁さん、大阪商工会議所の地域振興部長の深江茂樹さんが中核メンバーで、能村さんが顧問格、そして広瀬豊月刊せんば編集長、堀川紀年博報堂部長ら関係する仲間を一人ひとり増やし、およそ1年をかけ大阪コレクションの形を作っていく。もちろん全員が無報酬のボランティア活動だった。
(文中の敬称はいずれも当時)
『千里眼』No.78(2002年6月25日)掲載

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